アキバのつぶやき
2025.01.12
家づくりで正解は何ですか?
新年明けての最初の三連休。マイホームの建築を始められるお客様が向かう場所というのは、現代でもやはり総合住宅展示場なのでしょうか?私が、現役の注文住宅営業マンだったころは、年始にはこぞってキャンペーンと称し様々な催し物が展示場内で繰り広げられていました。中には住宅建築を考えていない方もご家族連れで来場され、モデルハウスの中はごった返していました。ところが、偶に真剣に検討しておられるお客様もちらほらご来場されていました。接客は輪番制だったので、仲間内では営業はくじ引きみたいなもんだと、嘯く営業マンもいました。
総合住宅展示場はご存知のごとく複数のハウスメーカが現実性の乏しい豪勢で立派なモデルハウスを建ててお客様をもてなしていますので、一日で様々な夥しい数の情報を浴びることになります。初めてのお客様ですと、当然のごとく戸惑われます。前に入ったメーカーではこう言っていたけど、このメーカーはまた違うことを言うという感じで、どれが本当なのか正しいのか、分からなくなり疲れます。
現在ではインタネットのおかげで、事前に情報を自分なりに把握できるので、以前よりは負担も少なくなっていると思うのですが、どうなのでしょう。これは家づくりに限ったことではないのでしょうが、大事なことは、自分は何がしたいのか、何が大切なのか?という価値基準をしっかりと打ち立てておくという事ではないでしょうか。基準が明確に定まらずにやたらと情報を入手しても、付和雷同してしまい思っていたものと違う方向に向かいかねません。
となりますと、やはり自分の気分といいますか、心地よいプロセスが実現できることが一番正しい家づくりの肝となるのではないでしょうか。本当の意味でお客様目線のアドバイスできる営業パーソンに出会えたお客様は幸福です。ですが、出会う確率は残念ですが非常に低いのが現状です。
ということは、自身の家づくりに対する意思をどこまで貫けるかになると思います。
最後に行き着くところは、家づくりも生き方も会社経営も、「それをいっちゃぁおしまいよ!」ということで、これが正解だ!というものは存在しないという事ではないのでしょうか。苦労や悩みなしに意思決定する一丁目一番地な行動は、何かにつけて正解を求めようとしないことかと思います。
自身を信じ、為さねばならないことを為す。これに行き着きました。
2025.01.11
邂逅
縁は異なもの味なものとよく言いますが、先日曽爾高原にある倶留尊山を一緒に登山した友人は小・中の同級生です。高校は違ったところに進学したので、中学卒業後は会ったことが無かったのですが、33年ぶりに前職の職場で再会しました。お互い中学生の容姿からは想像できない変化ぶりで、はじめ声をかけられても誰だか分かりませんでした。会話を通じて懐かしさが増し、それ以降親しくしていただいています。
今回の登山という趣味を満喫できたのは、彼の影響です。少し興味はございましたが、一人で山登りするのは少し危険な感じがして、もっぱらサイクリングで遠出するぐらいでした。でも、転倒してからサイクリングも怪我のリスクが多いと感じサイクリングも辞めました。10年ほど前は、先日行った曽爾高原まで一人でサイクリングに行ったことがございます。今考えますとよく家まで戻ってこれたなぁという感じです。人間というのは、恐怖を覚えなければ結構無茶な事にも挑戦できるものなんだなぁと今もって知らされます。
偶然の出会いという事で、先日の温泉施設では友人の会社の先輩が入浴されていました。こちらは気づかなかったのですが、先方より声がかかり雑談してましたら、その方も登山を趣味として楽しんでおられるとの事。その日も登山の帰りに立ち寄ったようでビックリ。話を聞きますと、僕たちよりも高度な登山をされているようで、様々な経験を今までされているとのこと。登山のベテランさんのようです。大峰山系を主に登っているようで、熊にも遭遇したことがあるとの事でした。
山友達が増えたと喜んでいただきましたが、私はちょっとハードな山登りはご免被りたいという気持ちが正直なところ。友人はまんざらでもない様子でしたので、おそらくその方とハードな山に挑戦するのではないでしょうか。
どこで誰とどんな形で出会うかは私たちの都合で作り出すことはできません。なぜこのような邂逅が、人生に存在するのでしょうか。その時その時の気づきを与えるために神様が用意してくださったのでしょうか。
今年もたくさんの出会いを大切に、営業という仕事に邁進していきたいです。
2025.01.10
グルメとマグロ
本年のお正月も例年通り、元旦にご先祖様のお墓参りに家族で出かけ、奈良の実家に行き、夕ご飯をご馳走になりました。一昨年は鰻重を持って行ったのですが、不評とのことで今年はカニ鍋を用意して下さいました。私はもっぱら呑むほうが好きなので食べ物に拘りが少ない質です。妻にとりましては楽な亭主ではないかと自負しておりますが、その他のことで迷惑をかけているようで、不機嫌な顔をされます。
年末年始の冬季休暇は、子どもたちが成人になり、出かけることなく過ごします。妻と子どもたちは伊勢神宮へ参拝に行ったようですが、私は読書三昧を満喫。ちょっと気分転換にテレビを見るというパターンで、一日があっという間に過ぎます。見るテレビは限られていまして、大晦日は紅白と孤独のグルメを交互に見ます。紅白よりは孤独のグルメ寄りではあります。主演の松重豊さんが好きで、観ていると本当に「腹がへった~!」という気分にさせられます。本当のお店ですので一度行ってみたいなぁと思っていますが、関東のお店が多くて行く機会はほぼないので、関西のお店、美章園のお好み焼きを食べてみたいと思っています。
年始のテレビでは、なんといっても、大間のマグロ漁師のドキュメンタリー風の番組が好きです。今年の初競りは2億超えでしたね。市場二番目の高値での落札とのことでした。200キロを超す巨大マグロを一人で釣り上げる男の生き様に毎年、感動させられます。漁師の家庭内の事情も織り交ぜながらの人生ドラマという感じです。二年や三年全く釣れない時期もあったという凄まじい博打な仕事なこと。辛抱と忍耐がなければなかなか続けられないマグロ漁師。本当に頭が下がる思いです。
当たり前のように食卓に並べられたお刺身ですが、これからは、感謝の気持で食するように改めなければならないなぁ!
あ~腹がへった!
家路につきます。
2025.01.09
今年の初登山
昨日の休日、友人と二人で秋のススキで有名な曽爾高原に行きました。シーズン中は車で行くと渋滞に巻き込まれますので、それを避けて降雪を心配しましたが、決行しました。自宅を出るときは、冬晴れの身の引き締まる気温でしたが、奈良県に入り天理市あたりから曇り出し一面がどんよりとした雪雲がたちこめてきました。しばらくすると、ボタン雪が降りだし風も強く吹雪の様そうでした。待合場所から友人の車に乗せてもらい、曽爾高原に向かいましたが、一向に雪はやもうとせず、山道はところどころ雪が積もっています。
目標場所の手前では、完全に道路が凍っていて、スリープしました。これは危険だという事で戻りました。ところが、僕たちの意思をくみ取ってくださったのか西の空から晴れ間が見え太陽が輝いています。路肩に車を停め思案しました。撤退という勇気が山登りは必要と友人は言うのですが、私の勘が「戻ろう!」と言わせました。
友人は以前からどうしても登りたかった、倶留尊山です。二つ返事で考えを変えて、駐車場にUターンしました。登山スタート時間は10時50分となりました。登山道は雪が所々積もっていましたし、風が台風のような強風で尾根伝いを歩いている時は、危険を感じました。足場がぬかるんでいますので、上りよりも下りがきつかったです。
駐車場に戻りますと総歩行距離約10キロと、友人の登山用の専用アプリが記録しており、標高は1100キロまで登っていました。水以外は何も口に入れずでお腹は減りすぎて空腹感がございませんでした。今回の登山の楽しみの一つであります、温泉につかって帰宅するという目的は当てにしていた温泉施設が閉まっていました。急遽、少し遠まわりとなりましたが、人気の温泉地であります大宇陀温泉あきのの湯に向かい体を温め癒すことが出来き、桜井市の台湾料理店で軽くご飯を食べ帰宅しました。
振り返りますと、登山中は寒さと強風で手足の指はかじかんできますし、足腰に疲れが溜まってきます。それでも、一歩一歩ゆっくりと、怪我しないように歩き続けれたことは良かった。
そんな僕たちに朝に続き天は、新たな出会いをご用意してくださっていたのでした。続きは後日にて・・・。
2025.01.07
因果のつながり
古い言葉に「恒産なくして恒心なし」がございます。孟子の言葉で、物質面で安定安心がなければ、精神面で不安定になるという意味といわれています。収入が安定的に入ってこないと、生活が乱れ犯罪に走りやすくなると言い換えれることができますが、果たしてそうだろうかと考える時がございます。確かにこのところ凶悪な犯罪が多発している感がございますが、それは日本人の収入が激減したからなのでしょうか。
武士は食わねど高楊枝という言葉がございます。お腹が減っても武士というものは、めった矢鱈と人様の食べ物を盗んだり、物乞いはしないという意味とすれば、精神が安定していれば、恒産がなくとも人の道を外す行為は慎めるものではないかと思います。
現代では、生活のために仕事しないと働かなければならないとよく言います。これも、反対から考えますと面白い。仕事をするために食べ物が与えられており、仕事をするために生活があると踏まえると、仕事が人間としての役目であり使命であるとストンと腑に落ちる。
生活のため、収入のため、家族のためを先に考えるのではなく、自分に与えられた仕事を第一とすれば、収入がすくなても大きな不平や不満という気持ちが沸き起こることはないのではと思うのですが、綺麗事すぎますかね?