アキバのつぶやき

2026.01.17

31年も経ったんですね!

 今日、一月十七日。 あの未曾有の災害から、三十一年という月日が流れました。
「三十一年」という歳月を、皆さまはどうお感じになるでしょうか。 生まれたばかりの赤子が三十代の中堅社会人となり、当時を知らない世代が社会の多くを占めるようになりました。

 三十年という時間は、歴史の大きな流れの中では瞬きのような一瞬かもしれません。しかし、あの日を境に人生の物語が書き換えられてしまった方々にとっては、一日一日の積み重ねがいかほどに重く、深いものであったかと思いを馳せずにはいられません。

 鴨長明は『方丈記』の中で、元暦の大地震を目の当たりにし、「およそ世の中のありにくきこと、身と家との、はかなくあだなるさま、またかくのごとし」と記しました。 人の営みの脆さ、そして自然の猛威の前に立ち尽くす人間の無力さ。長明が綴った平安末期の情景と、三十一年前の神戸の街が重なります。中世の人々も、私たちと同じように、足元が揺らぐ恐怖の中で「生」の本質を問い直したのでしょう。

 かの同志社大学が大切にしているものに、「良心」という言葉があります。 震災の記憶を語り継ぐことは、単に過去を懐かしむことではありません。それは、他者の痛みを自らのものとして感じる「想像力」を養うことであり、いつ訪れるかわからない困難に対して、私たちはどう隣人と手を取り合えるかという「知恵」を磨くことでもあります。

 当時の記憶が薄れゆく「忘却の淵」にあっても、私たちが文学や歴史をひもとくように、あの日起きた出来事を丁寧に振り返り、次の世代へと伝えていく。その営みこそが、亡くなられた方々への鎮魂となり、未来を照らす灯火になると信じております。

 冷え込みの厳しい折、被災されたすべての方々に改めて祈りを捧げるとともに、今ある日常という「奇跡」に深く感謝し、今日という一日を謙虚に大切に歩んでいきましょう。

  
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。

2026.01.16

不動産営業の賞味期限

 不動産営業にも「賞味期限」というものがあるのではないか。そう感じる場面が増えています。誤解のないように言えば、年齢の話ではありません。問題は、どのやり方で成果を出しているか、という点です。

 かつての不動産営業は、足で稼ぐ仕事でした。電話をかけ、訪問し、名刺を配る。その量が、そのまま成果につながる時代が確かにありました。そのやり方で結果を出してきた人ほど、「自分の営業スタイルは完成している」と思いがちです。しかし市場は変わりました。情報は顧客の手の中にあり、営業は「教える人」から「整理する人」へと役割が変わっています。ここで賞味期限が問題になります。

 過去に機能したやり方を、そのまま冷蔵保存しても、いまの市場では味が落ちる。にもかかわらず、成功体験が強いほど、やり方を変えられない。これが、不動産営業の賞味期限を早める最大の要因です。一方で、長く求められる営業もいます。彼らは新規開拓の数ではなく、既存顧客との関係の質を高めます。

 物件の説明よりも、意思決定の背景を聞く。価格よりも、生活や事業の文脈を理解する。つまり、営業を「売る仕事」から「判断を助ける仕事」へとシフトしているのです。
年齢を重ねた営業にとって、これはむしろ有利です。

 経験とは、物件数ではなく「失敗と修正の履歴」です。その履歴を言語化できる人ほど、若い営業には代替できません。体力勝負を降り、知的勝負に移行した瞬間、不動産営業の賞味期限は延び始めます。

 重要なのは、自分の現在地を正確に知ることです。自分は、いま「誰に」「何を」提供できるのか。新築なのか中古なのか、個人なのか法人なのか、売買なのか賃貸なのか。ターゲットを絞ることは、可能性を狭めることではありません。 賞味期限を明確にする行為です。

 不動産営業の賞味期限は、外から決められるものではありません。やり方を更新し、役割をずらし、価値の出し方を変え続ける限り、期限は自分で延ばせます。この仕事は、年を取るほど「売らなくても選ばれる」営業になれる。そういう、数少ない職業なのです。

 
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。

2026.01.15

なぜ今、解散なの?

 衆議院議員の解散が現実となりました。いま、どうして高市首相は、今この時をもって、解散することを決断したのだろうか?結論から言えば、「自民単独政権を狙っている面はあるが、それ“だけ”ではない」と思います。

 まず前提として、単独政権というのは政治における意思決定コストを最小化する仕組みです。連立政権は、合意形成という“調整”に時間とエネルギーを取られます。企業で言えば、共同出資会社やアライアンス経営に近い。平時はいいが、環境変化が激しい局面では動きが鈍くなる。単独政権を狙う動機は、極めて合理的です。

 しかし、ここで重要なのは「本当に単独で勝てると思っているか」という点です。解散は、勝算がなければ打たない手です。世論、野党の分断、争点のぼやけ具合、これらを総合すると「今なら最大化できる」という読みがあった可能性は高い。ただしそれは、単独過半数の獲得というよりも、連立相手に対する交渉力の最大化を狙ったものとも解釈できます。

 これは「支配の論理」ではなく「交渉の論理」です。選挙で議席を積み増せば、連立相手は「いなくても何とかなる存在」になる。その瞬間、主導権は完全に自民側に移る。単独政権はゴールというより、交渉上の脅しとしてのオプションです。

 もう一つ見逃せないのは、有権者に対するメッセージです。「単独でやらせてほしい」という訴えは、責任の所在を明確にするという点で分かりやすい。これはマーケティングとしては強い。ただし同時に、結果が出なかったときの言い訳が一切できなくなる、というハイリスクな選択でもあります。

 要するに今回の解散は、単独政権を本気で取りに行く“賭け”であると同時に、連立の力学を自民有利に組み替えるための戦略的な賭場でもあると思います。

 勝てば主導権、負ければ正統性を失う。非常に、「筋は通っているが、筋がいいかどうかは結果次第」。そういう一手だと思います。何事にも、いつかどこかで意思決定しなければならないのです。

 
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。

2026.01.12

もしスーモが撤退したら!

 もしドラではないですが、もし明日、突然スーモがなくなったら、不動産仲介業者の多くは、まず青ざめるでしょう。弊社もスーモに広告を依頼しています。自社のホームページだけでは、なかなか集客がままならないのが現状です。

 これは、不動産業者であれば皆さん同じ思いではないでしょうか。それだけ、リクルートさんの戦略がすぐれているということの証明です。集客の大動脈が一夜にして断たれる。問い合わせ件数は激減し、営業会議では「どうする?」という言葉だけが空回りする。けれど、この思考実験はとても示唆的です。

 スーモは広告媒体であると同時に、業界の業務プロセスそのものになっています。物件情報の整理、写真の撮り方、キャッチコピーの書き方、価格の見せ方。すべてが最適化されてきました。言い換えれば、不動産仲介の価値創造が、プラットフォームに外注されてきたわけです。

 これは「戦略の不在がもたらす合理性」です。個々の仲介業者が独自に集客力を高めるより、スーモに乗るほうが合理的。結果として、みんなが同じ土俵に並び、価格と反響数で競う世界ができあがりました。効率は高いが、差別化は消える。よくできた仕組みです。

 では、スーモが消えたら何が残るのか。残るのは、地域での信用、顧客との関係、そして「この会社に頼みたい」と思わせる理由です。つまり、本来は最初から持っていなければならなかった競争力です。

 面白いのは、スーモがある限り、それを鍛えるインセンティブが働きにくいことです。広告費を払えば、一定の反響が来る。短期的には正しい意思決定です。しかし長期で見ると、自社の物語や顧客資産は蓄積されません。これは便利さがもたらす典型的な罠です。

 戦略とは「やらないことを決める」ことだと言われます。もし本気で「スーモがなくなった世界」を想定するなら、いま何をやらないかが見えてきます。反響数至上主義、物件数競争、値下げ合戦。これらをやめたときに初めて、仲介業者としての独自性が立ち上がる。

 おそらくスーモはなくならないでしょう。だからこそ、この問いは意味があります。なくならない前提に安住するか、なくなっても生き残る前提で仕事を再設計するか。不動産仲介業者にとっての本当の分岐点は、そこにあると思い日々変化することに挑戦していきます。

今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださってありがとうございます。

2026.01.11

あけおめ退職って、モウムリ!

 年明け早々に「退職しました」という報告がSNSに流れる。いわゆる「あけおめ退職」です。勢いがあって清々しい、と感じる人もいれば、無責任だと眉をひそめる人もいるでしょう。しかし、ここで大切なのは善悪の議論ではなく、「なぜこの現象が繰り返し起きるのか」という構造を考えることです。

 まず、年末年始という区切りは、人の意思決定を過大に後押しします。これは合理的というより、心理的な装置です。一年を振り返り、新しい年に「何者かになりたい」という気分が高まる。その高揚感が、退職という不可逆的な意思決定を正当化してしまう。戦略論的に言えば、これは「感情が主導権を握った意思決定」です。

 一方で、企業側の視点に立てば、あけおめ退職は突発的な事件ではありません。むしろ、静かに蓄積されてきた不満や違和感が、年末年始というトリガーで表出した結果にすぎません。突然辞めたのではなく、「とっくに辞めていた」のです。物理的に席を立ったのが年明けだった、というだけの話です。

 問題は、退職そのものではありません。本質的な問いは、その人にとって「辞めること」が戦略になっているかどうかです。次の選択肢が曖昧なまま辞めるのは、自由ではなく単なる不確実性の増幅です。選択肢が増えるどころか、むしろ減ってしまうケースも多い。

 戦略とは、やらないことを決めることだと言われます。退職も同じです。何をやらないのか、ではなく、「何に集中するために辞めるのか」が言語化できているかどうか。ここが曖昧なままのあけおめ退職は、後から効いてきます。

 新年は希望に満ちた季節です。しかし、希望は戦略の代わりにはなりません。気分で辞めることはできても、構造からは逃げられない。あけおめ退職という軽やかな言葉の裏側には、いつも重たい現実が静かに横たわっています。

 だからこそ、辞めるかどうかよりも、「なぜ今なのか」「その先で何を取りにいくのか」。この二つを自分の言葉で説明できるかどうかが、あけおめ退職を単なるイベントにするか、意味のある転機にするかの分かれ目なのだと思います。