アキバのつぶやき

2026.01.15

なぜ今、解散なの?

 衆議院議員の解散が現実となりました。いま、どうして高市首相は、今この時をもって、解散することを決断したのだろうか?結論から言えば、「自民単独政権を狙っている面はあるが、それ“だけ”ではない」と思います。

 まず前提として、単独政権というのは政治における意思決定コストを最小化する仕組みです。連立政権は、合意形成という“調整”に時間とエネルギーを取られます。企業で言えば、共同出資会社やアライアンス経営に近い。平時はいいが、環境変化が激しい局面では動きが鈍くなる。単独政権を狙う動機は、極めて合理的です。

 しかし、ここで重要なのは「本当に単独で勝てると思っているか」という点です。解散は、勝算がなければ打たない手です。世論、野党の分断、争点のぼやけ具合、これらを総合すると「今なら最大化できる」という読みがあった可能性は高い。ただしそれは、単独過半数の獲得というよりも、連立相手に対する交渉力の最大化を狙ったものとも解釈できます。

 これは「支配の論理」ではなく「交渉の論理」です。選挙で議席を積み増せば、連立相手は「いなくても何とかなる存在」になる。その瞬間、主導権は完全に自民側に移る。単独政権はゴールというより、交渉上の脅しとしてのオプションです。

 もう一つ見逃せないのは、有権者に対するメッセージです。「単独でやらせてほしい」という訴えは、責任の所在を明確にするという点で分かりやすい。これはマーケティングとしては強い。ただし同時に、結果が出なかったときの言い訳が一切できなくなる、というハイリスクな選択でもあります。

 要するに今回の解散は、単独政権を本気で取りに行く“賭け”であると同時に、連立の力学を自民有利に組み替えるための戦略的な賭場でもあると思います。

 勝てば主導権、負ければ正統性を失う。非常に、「筋は通っているが、筋がいいかどうかは結果次第」。そういう一手だと思います。何事にも、いつかどこかで意思決定しなければならないのです。

 
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。

2026.01.12

もしスーモが撤退したら!

 もしドラではないですが、もし明日、突然スーモがなくなったら、不動産仲介業者の多くは、まず青ざめるでしょう。弊社もスーモに広告を依頼しています。自社のホームページだけでは、なかなか集客がままならないのが現状です。

 これは、不動産業者であれば皆さん同じ思いではないでしょうか。それだけ、リクルートさんの戦略がすぐれているということの証明です。集客の大動脈が一夜にして断たれる。問い合わせ件数は激減し、営業会議では「どうする?」という言葉だけが空回りする。けれど、この思考実験はとても示唆的です。

 スーモは広告媒体であると同時に、業界の業務プロセスそのものになっています。物件情報の整理、写真の撮り方、キャッチコピーの書き方、価格の見せ方。すべてが最適化されてきました。言い換えれば、不動産仲介の価値創造が、プラットフォームに外注されてきたわけです。

 これは「戦略の不在がもたらす合理性」です。個々の仲介業者が独自に集客力を高めるより、スーモに乗るほうが合理的。結果として、みんなが同じ土俵に並び、価格と反響数で競う世界ができあがりました。効率は高いが、差別化は消える。よくできた仕組みです。

 では、スーモが消えたら何が残るのか。残るのは、地域での信用、顧客との関係、そして「この会社に頼みたい」と思わせる理由です。つまり、本来は最初から持っていなければならなかった競争力です。

 面白いのは、スーモがある限り、それを鍛えるインセンティブが働きにくいことです。広告費を払えば、一定の反響が来る。短期的には正しい意思決定です。しかし長期で見ると、自社の物語や顧客資産は蓄積されません。これは便利さがもたらす典型的な罠です。

 戦略とは「やらないことを決める」ことだと言われます。もし本気で「スーモがなくなった世界」を想定するなら、いま何をやらないかが見えてきます。反響数至上主義、物件数競争、値下げ合戦。これらをやめたときに初めて、仲介業者としての独自性が立ち上がる。

 おそらくスーモはなくならないでしょう。だからこそ、この問いは意味があります。なくならない前提に安住するか、なくなっても生き残る前提で仕事を再設計するか。不動産仲介業者にとっての本当の分岐点は、そこにあると思い日々変化することに挑戦していきます。

今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださってありがとうございます。

2026.01.11

あけおめ退職って、モウムリ!

 年明け早々に「退職しました」という報告がSNSに流れる。いわゆる「あけおめ退職」です。勢いがあって清々しい、と感じる人もいれば、無責任だと眉をひそめる人もいるでしょう。しかし、ここで大切なのは善悪の議論ではなく、「なぜこの現象が繰り返し起きるのか」という構造を考えることです。

 まず、年末年始という区切りは、人の意思決定を過大に後押しします。これは合理的というより、心理的な装置です。一年を振り返り、新しい年に「何者かになりたい」という気分が高まる。その高揚感が、退職という不可逆的な意思決定を正当化してしまう。戦略論的に言えば、これは「感情が主導権を握った意思決定」です。

 一方で、企業側の視点に立てば、あけおめ退職は突発的な事件ではありません。むしろ、静かに蓄積されてきた不満や違和感が、年末年始というトリガーで表出した結果にすぎません。突然辞めたのではなく、「とっくに辞めていた」のです。物理的に席を立ったのが年明けだった、というだけの話です。

 問題は、退職そのものではありません。本質的な問いは、その人にとって「辞めること」が戦略になっているかどうかです。次の選択肢が曖昧なまま辞めるのは、自由ではなく単なる不確実性の増幅です。選択肢が増えるどころか、むしろ減ってしまうケースも多い。

 戦略とは、やらないことを決めることだと言われます。退職も同じです。何をやらないのか、ではなく、「何に集中するために辞めるのか」が言語化できているかどうか。ここが曖昧なままのあけおめ退職は、後から効いてきます。

 新年は希望に満ちた季節です。しかし、希望は戦略の代わりにはなりません。気分で辞めることはできても、構造からは逃げられない。あけおめ退職という軽やかな言葉の裏側には、いつも重たい現実が静かに横たわっています。

 だからこそ、辞めるかどうかよりも、「なぜ今なのか」「その先で何を取りにいくのか」。この二つを自分の言葉で説明できるかどうかが、あけおめ退職を単なるイベントにするか、意味のある転機にするかの分かれ目なのだと思います。

2026.01.10

私のカレンダー

 私のカレンダーは、世間のそれと少しずれているような気がします。祝日や記念日はきちんと赤く印刷されているのに、なぜか私の生活は、そこではあまり区切られません。むしろ、天気の変わり目や、身体の調子、ふとした言葉に引っ張られて、一日が始まり、終わっていきます。
 
 若い頃は、カレンダーは未来のための道具でした。
締切、約束、旅行の予定。先に書き込まれた予定が、私を前へ前へと押してくれました。空白は不安で、何も書かれていない日は、少し怠け者になったような気がしたものです。けれど年を重ねるにつれて、カレンダーの役割は変わってきました。書き込む文字は減り、その代わり、消せない記憶が増えていきます。

 病院の予約日、法事の日、誰かの命日。未来よりも、過去と静かに向き合う印が多くなりました。
それでも、空白の多い月を見ると、ほっとする自分がいます。予定がないということは、何も起きないという意味ではありません。むしろ、予定外のことが入り込む余地がある、ということなのだと、今は思います。思いがけない電話、久しぶりの来客、突然の散歩。そういうものは、カレンダーには書き込めません。

 私はときどき、終わった日付を指でなぞります。何をしたか思い出せない日もあれば、胸の奥が少し重くなる日もあります。それでも、その一日一日を越えて、今ここにいる。その事実だけが、カレンダーの裏側に確かに積み重なっている気がします。

 来月のカレンダーは、まだ白いままです。無理に埋めようとは思いません。余白があるから、季節は入り込み、人の気配も忍び込む。私のカレンダーは、予定表というより、生活の余韻を受け止める紙なのかもしれません。

 今日という日も、いずれは小さな数字になります。けれど、その数字の中に、確かに私がいたことだけは、忘れずにいたい。そんな気持ちで、私は今日もカレンダーをめくります。

2026.01.09

アリよさらば!

 組織の慣性が引き起こす「死の渦」、つまり不祥事の連鎖を止めるのは、ルールや管理の強化ではありません。むしろ、ルールを増やせば増やすほど、アリたちは「ルールを守ること」というフェロモンに縛られるのと同様に、ますます思考を停止させてしまいます。

 では、リーダーはどうすればいいのか。それは、現場に対して「筋の良さ」を問い続ける、極めてアナログな対話に集約されると私は考えています。
デス・ミルを止めるリーダーの「3つの問い」、身も蓋もない言い方をすれば、不祥事が起きる現場では「商売としてのセンス」が霧散しています。そこにあるのは「計算」だけです。

 リーダーが投げかけるべきは、その計算をストップさせ、個人のセンスを呼び起こすための問いです。
1. 「それは、人間として不自然ではないか?」データが綺麗に揃いすぎている、あるいは何年も全く同じ傾向が続いている。そんな時、リーダーは「素晴らしい成果だ」と褒める前に、「これ、ちょっと不自然じゃない?」と首を傾げる必要があります。 アリの列から離れる最初の一歩は、この「違和感」を言葉にすることです。合理的な計算(スキル)では導き出せない、「何かおかしい」という直感(センス)を組織に共有することが、偽造の温床となる「空気」を壊します。

2. 「もし今日、この業務をやめたら誰が困るのか?」慣性で動いている組織では、手段が目的化しています。「検査すること」自体が目的になり、その先の「安全」が忘れ去られています。 「この書類、本当に誰かの役に立ってる?」という問いをあえて投げかける。もし答えに窮するようなら、そこにはデス・ミルのフェロモンが溜まっています。目的を再定義する問いは、組織の硬直をほぐす特効薬になります。

3. 「その仕事、自分の子供に誇れるか?」最後は、究極の「美意識」の問題です。効率や利益といった「数字のロジック」から一度離れ、「それはカッコいい仕事か、ダサい仕事か」を問う。 捏造や改ざんは、例外なく「ダサい」行為です。リーダーが日常的に「商売の美学」を語り、ダサい行為を許さない姿勢を見せることで、社員は「フェロモンをなぞるだけのアリ」から、自らの意思で歩く「商売人」へと戻ることができるのです。