アキバのつぶやき

2026.02.09

業者のポジショントークでは、売れもせず、仕入れもできず!

 不動産営業の現場にはひとつの誤解があります。正しく説明すれば顧客は動くという誤解です。
価格や立地や利回り。数字を並べ、論理を語る。顧客はうなずく。しかし契約には至らない。

 なぜか。人は論理では動かないからです。提案だけで動く人はいない。
正論で動く人もほぼいない。不動産営業の本質は説得ではないのです。

 人は説得では動かない。自分で決めた時に動く。「今が買い時です」それだけでは決断しない。
「人気の物件です」それでも心は動かない。なぜならそれは他人の言葉だからです。

 不動産の決断とは人生の決断そのもの。住宅ローンとは三十五年以上への投票です。
立地選びとは家族の未来への選択。この重さは提案や示唆だけでは動かせない。

 優れた営業は提案や示唆をしません。代わりに問いを設計します。
十年後の暮らしはどうなっていますか。この物件を逃せばどんな未来になりますか。
この家を選んだ理由を誰に語れますか。問いが生まれた瞬間、顧客は考え始めます。

 その時、人は動く。どれだけ条件が良くても理由がなければ決断しません。
不動産営業とは物件を売る仕事ではございません。顧客の意思決定を設計する仕事です。

 提案や、成約事例の提示によって誘導するだけで売る営業は、短期的には成果が出るでしょう。
しかし信頼も紹介も長くは続かない。顧客が「動かされた」と感じるからです。

 自分で決めた顧客は必ず営業を評価する。あなたがいたから決断できたと言う。
人は意味で動くのです。納得で動く。そうです、自分の選択だと感じた時に。

 不動産営業とは顧客の人生の選挙に選択肢を掲げて立候補する仕事なのです。

 今日も「アキバのつぶやき」に来てくださってありがとうございます。

2026.02.08

不動産価格の暴落が教えてくれる戦略の正体

 金相場はここ数日、大暴落を続けています。一方で不動産価格は、しばしば「下がりにくい資産」と語られます。土地は有限であり、人口は都市に集中し、建築コストは上昇する。したがって、不動産は長期的に値下がりしない。

 この物語は、不動産業界において半ば常識のように共有されています。しかし、相場はいつも、この「常識」を裏切る形で動きます。ある日突然、取引が止まり、価格が下落し、買い手が消える。その瞬間、多くの人がこう言います。

 「想定外だった」と。でも、経営学者に言わせると
、想定外なのではありません。想定していなかっただけですと。
不動産価格が上昇している局面では、人々の関心は「価値」ではなく「物語」に向かいます。

 再開発、インバウンド、金利の低位安定、人口流入。これらの要因が一つのストーリーとして語られ、不動産は「買っておけば間違いない資産」に変換されます。
しかし、価格を支えているのは、土地そのものの価値ではありません。価格を支えているのは、「これからも上がる」という期待です。

 期待がある限り、取引は成立します。期待が剥落した瞬間、価格は意味を失います。例えば、金利がわずかに上昇しただけで、住宅ローンの負担感は急激に変わります。金融機関の審査基準が少し厳しくなっただけで、買い手は消える。人口動態が変わったわけでも、土地が消えたわけでもありません。それでも市場は冷え込む。

 つまり、不動産市場が崩れるとき、壊れているのは「価値」ではなく「前提条件」です。ビジネスにおいても同じ構造があります。上手くいっている事業ほど、「前提」を疑わなくなる。売れている商品ほど、「なぜ売れているか」を考えなくなる。不動産価格の調整局面は、単なる景気循環ではありません。

 「成功体験がどれほど脆いか」を可視化する装置です。不動産とは、本来、長期の資産です。にもかかわらず、人々は短期の物語で判断する。このギャップこそが、相場の変動を生む本質です。

 結論は単純です。不動産市場で本当に怖いのは、暴落ではありません。怖いのは、上昇が続いているときに、誰も疑問を持たなくなることです。相場が静かなときほど、戦略は試されている。
 不動産市場とは、価格の市場であると同時に、「思考の市場」なのです。

今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。

2026.02.07

不動産営業と立候補について

 不動産営業という仕事は、誤解されやすい。

 「物件を売る仕事」だと思われがちですが、本質はそこにはありません。不動産営業の本質は、顧客の意思決定に、立候補する仕事です。

  ここで「立候補」という言葉の意味を、漢字から考えてみます。
「立」とは、自ら立つこと。誰かに指名される前に、自分の意思で名乗り出ることです。不動産営業において、これは何を意味するのか。それは、「言われたことだけをやる営業」ではなく、「自分から提案する営業」であるということです。
 顧客が「何か良い物件はありませんか」と言う前に、こちらから「この選択肢はどうでしょうか」と提示できるかどうか。ここに、営業の格差が生まれます。

 次に「候」。
これは、状況を読むという意味です。不動産営業において、最も重要なのは物件情報ではありません。顧客の人生の文脈です。年収、家族構成、勤務地、資産状況。それだけでは足りない。本当に読むべきなのは、「この人は、どんな未来に投票しようとしているのか」という兆しです。 価格の話をしているのに、目線がどこか不安げな人。立地の話をしているのに、家族の話をやたらとする人。優れた営業は、物件ではなく「兆し」を見ています。

 最後に「補」。これは、欠けているものを埋めるという意味です。顧客は、必ずしも自分が何を求めているかを言語化できていません。 むしろ、ほとんどの場合、言語化できていない。だからこそ、不動産営業の役割は、「物件を提示すること」ではなく、「顧客の言葉にならない欠落を補うこと」にあります。

 例えば、「駅近がいい」という言葉の裏には、「子どもの将来が不安だ」という感情があるかもしれない。「予算は抑えたい」という言葉の裏には、「失敗したくない」という恐怖があるかもしれない。不動産営業とは、その恐怖や不安を、構造的に埋めていく仕事です。

 ここまで考えると、不動産営業とは、単なる販売ではありません。顧客の人生に対する、ひとつの立候補です。「この選択肢を、私は支持します」「この未来を、私は提案します」そう言える営業だけが、選ばれる。逆に言えば、立候補しない営業は、必ず負けます。無難な提案、平均的な資料、当たり障りのない説明。それらはすべて、「無投票当選」を許す行為です。

 不動産市場は競争市場です。しかし本当の競争相手は、他社の営業ではありません。顧客の「現状維持」という強力な候補者です。不動産営業とは、顧客の人生における選挙に、自分の提案を掲げて立つ行為である。そう考えると、この仕事は、少しだけ、違って見えてきます。

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2026.02.06

再び不動産営業の病とは?

 不動産営業の現場で、最も多い敗因は何でしょうか。能力不足でも、知識不足でもありません。実はもっと単純で、しかも致命的な原因です。それは、「始めない」という選択です。

 多くの営業マンは、「もう少し準備が整ってから動こう」と考えます。市場環境が良くなってから、新しいツールを導入してから、上司の理解が得られてから。理由はいくらでも見つかります。しかし、その間にも市場は動き、顧客は意思決定を終え、競合は行動しています。

 不動産市場は、待ってくれる相手ではありません。
不動産営業における差は、スキルの差ではなく、開始時点の差でもありません。「始めたかどうか」の差です。一本の電話をかけたか、一件の訪問をしたか、一つの提案を出したか。その事実だけが、市場との接点を生みます。接点のない営業は、存在しないのと同じです。

 ここで誤解してはいけないのは、行動できないことが必ずしも怠慢ではないという点です。先日もつぶやいた、京都大学の研究が示すように、人間の脳は「嫌な行動」に対してブレーキをかけるように設計されています。価格交渉、クレーム対応、新規開拓。不動産営業の本質的業務は、すべて心理的負荷を伴います。

 つまり、多くの営業マンはサボっているのではなく、合理的に回避しているのです。
問題は、その合理性を放置する組織にあります。営業力を「やる気」で説明する会社は、戦略を放棄しています。やる気を問い続ける組織ほど、行動を設計していません。

 結果として、営業は属人化し、成果は偶然に依存し、再現性は失われます。
優れた不動産会社は、営業マンに勇気を求めません。代わりに、始めざるを得ない構造をつくります。行動のハードルを極限まで下げ、失敗のコストを可視化し、小さな成功を制度化する。

 営業とは精神論ではなく、設計の問題なのです。
人生の問題は、始めるのが遅いことではありません。始めないことが、唯一の致命傷なのです。不動産営業とは、その残酷な真理を、毎日の数字で突きつける職業だと言えるでしょう。

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2026.02.05

マスコミとの付き合い

 スポーツニュースでは「雪不足で練習ができない」と嘆き、天気予報では「80年ぶりの大雪」と伝える。同じ放送局の、同じ一日の出来事です。にもかかわらず、そこに違和感を覚えない人の方が多い。

 私は、この現象にマスコミの本質が表れていると思います。重要なのは、どちらも事実であるということです。雪が足りない場所もあれば、雪が降りすぎた場所もある。現実はもともと複雑で、矛盾に満ちています。しかし、マスコミはその複雑さをそのまま伝えません。文脈ごとに世界を切り分け、分かりやすい物語として提示する。

 つまりマスコミとは、世界を説明する存在というより、「編集する装置」なのです。問題は、編集された世界を、私たちが「現実そのもの」だと誤解してしまう点にあります。雪不足と大雪は、本来なら同じ気候変動の文脈で語られるべき現象でしょう。

 しかし、スポーツはスポーツ、天気は天気という枠組みの中で語られることで、両者の関係性は見えなくなります。結果として、私たちは断片化された現実だけを受け取ることになります。マスコミは嘘をついているわけではありません。しかし、真実を語っているわけでもない。

 彼らが提供するのは、切り分けられた「部分的な正しさ」です。そして、その部分的な正しさが積み重なることで、全体像はますます見えなくなります。これは、組織や社会で起こる「逸脱の正常化」とよく似ています。世界を断片化して語ることが当たり前になり、その違和感が忘れられていく。

 私たちはいつの間にか、「編集された世界」に慣れてしまうのです。マスコミとは何か。それは現実の鏡ではなく、現実を都合よく切り取るレンズなのかもしれません。そして、そのレンズを通して世界を見ることに慣れたとき、私たちは本当の現実を見失うのではないでしょうか。

 今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。