アキバのつぶやき

2025.08.01

「亡○○の相続財産」が語る、所有とは誰のものか

 登記簿を眺めていて、「亡○○の相続財産」と記されている物件に、初めて出会いました。この表記は、単なる死亡の記録ではございません。それは、所有権の空白地帯が生まれていること、そして相続という制度がまだ“実装”されていないことを意味しています。

 通常、不動産の名義人が死亡すると、その所有権は法定相続人に分割されます。しかし、それは法的に「当然そうなる」だけであって、登記簿に反映されない限り、第三者には効力を持ちません。ですので、「亡○○の相続財産」として登記されている不動産は、誰が最終的な所有者なのか、確定していない状態にあるということです。


 これは、資産の“稼働停止”を意味するのではないでしょうか。企業で言えば、所有者不明の設備が工場に眠っているようなものです。活用も売却もできず、税金だけが発生し、時間だけが過ぎていく。登記簿上でこのような「相続財産法人」のような状態が続くのは、経済合理性から見ても望ましくございません。
 
 さらに重要なのは、「亡○○の相続財産」という登記は、相続人全体が共有する財産であるという構造を持つことです。この状態から財産を動かすには、すべての相続人が関与し、相続登記を済ませる必要があります。ということは、「相続」ではなく、「争続」が発生していて相続登記がいつになるかが、相当の期間で想定できないと考えられます。
 嫡出子以外の非嫡出子が存在している可能性があるのではないだろうか。相続財産は誰か一人が勝手に処分できないので、もしややこしい過去があると,ちょっとでも身に覚えがある方は、早めに相続登記の手続きを始めてください。

 
 もしこのような状況であれば、自分では相続登記手続きすることは困難です。司法書士にお願いするかしか、相続登記の完了は難しいです。また、手間が相当かかりますので、高額の費用を覚悟しておいてください。

2025.07.31

本質を見抜くには!

 本質を見抜くには、どうすればよいのでしょうか。最近、そんなことをよく考えるようになりました。何かを選ぶとき、ニュースを見たとき、誰かと話すとき。ふとした瞬間に「これはどういうことなのだろう」と、自分の中で立ち止まる時が多くなりました。これはこれで私は評価しております。すぐに反応して感情的に言葉を発することほど愚かなことはないと、強く自身に言い聞かせているので、安堵しています。

 
 たとえば、働き方改革という言葉を耳にすると、私は「それは誰のための改革なのだろう」と考えてしまいます。便利で聞き心地の良い言葉ほど、現実の複雑さや矛盾を包み隠してしまうことがあります。ですから私は、その言葉の奥にいる「困っている誰か」の姿を想像するようにしています。

 日常の中にも、本質を感じる場面があります。以前は値段の安さでモノを選んでいましたが、最近は少し高くても長く使えるものに惹かれるようになりました。素材や作り手の背景、そして使い心地。表面には見えないものこそ、本質なのかもしれません。

 また、焦らずに観察することも大切だと思っています。すぐに答えを出さず、相手の言葉の行間を感じ、出来事の背後にある流れを静かに見つめる。そうした姿勢が、本質を見抜く感覚を養ってくれるのではないでしょうか。
 もちろん、私自身、何度も間違えます。見抜いたつもりでいたことが、実は早とちりだったと気づくこともあります。でも、間違いに気づき、考えを修正していけることもまた、本質を見抜く力の一部だと信じています。

 大事なのは「見抜こう」とする姿勢そのものなのかもしれません。枝葉に気を取られすぎず、物事の幹を見つめる。世の中も、人との関係も、自分自身も。そうやって静かに向き合った先に、ようやく見えてくるものがあるのだと思います。

2025.07.30

優遇

 自分は特別な扱いを受けていると思うと、それはそうだ!と思う人と、そんなわけないだろう!と思う人に二分されます。偶々、テレビで徳勝龍の優勝インタビューを観ました。


「自分なんかが、優勝していいのでしょうか?」


とても謙虚で、日本人好みの発言ですね。


ですが、内心では大半の方が、前者を認識されるのではないでしょうか。自尊心というものが、人の心の奥底に存在します。だからこそ、混沌のこの世に、なんだかかんだといいながら、生き続けることができるとも言えます。 


 最近、「外国人が日本で優遇されすぎているのではないか」という声をよく耳にします。確かに、住民税を納めていない外国人が無担保で起業資金を得たり、生活保護や医療制度を利用しているという話がメディアやSNSで拡散されると、不公平感を抱くのも無理はありません。


 ただ、少し立ち止まって背景を見てみましょう。まず、こうした制度は、戦後の日本が国際社会の一員として果たしてきた役割に根差しています。たとえば、外国人留学生への奨学金支援は、将来の国際的な架け橋になる人材を育てるという目的で始まりました。ある意味、外交戦略の一部でもあるのです。

 また、少子高齢化が進む日本において、労働力不足は深刻です。介護や農業、建設など、国内人材だけでは支えきれない分野が増え、外国人の力が不可欠になっています。そのため、生活基盤の整備や制度面での支援が強化されてきたという事情もあります。

 もちろん、制度の運用において不備や抜け穴があることは否定できません。とくに生活保護や健康保険などは、「準用」とされているにもかかわらず、実質的には日本人と同等の扱いがなされている例もあるようです。ここには、制度設計の曖昧さや行政の形式主義が影を落としています。

 ただ、本質的な問題は、「外国人が優遇されている」というよりも、「日本人が十分に支援されていない」ことなのかもしれません。日本人学生が奨学金で借金を背負う一方で、外国人留学生には給付型の支援が手厚くある。このギャップに、不公平感が募るのは自然なことです。
 
 こうした感情を一部の政党が「日本人ファースト」という形で表現し、有権者の共感を得たのも、ある意味では当然の流れと言えるでしょう。今こそ、冷静に事実を見つめ、制度の見直しを進める時ではないでしょうか。

2025.07.29

楽観とリスク管理

 未来に対して楽観的でいることは大切です。前向きな精神を常に持つ姿勢は、行動力を生み、また知恵が出てきます。そによって人を引き寄せ、新しいことに挑戦する機会を多く持つことが可能になるとおもいます。ですが、楽観だけでは足りないと、世間のニュースを見聞きしていると痛感します。

 株式投資の世界は正しくそうと思います。リスクを見ない楽観は、ただの無防備です。現実を直視し、想定外をも想定し、最悪に備える。それがリスク管理というものです。

 ですので、楽観とリスク管理は対立しないのです。むしろ両者は補い合う関係にあります。「うまくいく」と信じるからこそ、失敗に備える。「転ばない」と思う人ほど、ちゃんと靴紐を結ぶ。健全な楽観とは、現実に根ざした希望だ。

 
 先日の米国野球殿堂入りのイチローさんのスピーチの中で、「私は自分の道具を毎日自分で手入れしました。グラブのひもが緩んでミスをすることも、スパイクが汚れていてベースで滑ることも避けたかったからです。」のような内容がありました。まさしく、自分の能力に過信することなく、しっかりといいプレーができるように、他人に任せるのではなく、自分の目と手で道具を管理していたのです。これもリスク管理の一つといえます。




 自分が定めて目標に向かい、夢を実現するために、未来を明るく思い描きつつも、準備を怠らない。心には気高き理想を持ち、肉体では備えを粛々と行う。これが、前に進むためのバランスだと思い、自身の仕事に活かせていきたいです。

2025.07.28

あなたは、なぜ働くのですか?

 いきなり、質問されて困ることは、「なぜあなたは働くの?」という、問いではないでしょうか?
ある意味で「なぜ生きるのか?」に近いとも言えます。


 ですが私は、この問いに、より実務的にそして未来志向で答えたいと思います。

 私は第一義に働くとは、世間でいう単に報酬や対価を得る行為ではないと思います。自らの才能と時間を、社会への貢献と交換することだと思っています。そして、その交換比率が、給与であり、評価、自己実現になるのだと思います。ですので、働くとは、人生のポートフォリオ運用に他ならないのでないでしょうか。
 資本主義の本質は、資本が資本を生むことにある。だが、私たちの多くの人は、最初から資本を持ってはいません。そこで働くことによって、人的資本(スキル・信頼・実績)を形成し、やがてそれをお金に変換していく。このプロセスこそが、経済的自立と、自由への道となるのです。

 そして私は、「自由」こそが働く最大の目的だと考えています。選択の自由、時間の自由、場所の自由。好きな仕事を選び、好きな人と働き、好きな場所で生きる。その自由を得るために、我々は働き続けるのだと思うのです。ただし、そこには義務と秩序が併存することを逸してはいけません。

 もう一つ、働くことで社会との接続が保たれる。社会というネットワークに自分というノードを接続し続ける限り、情報やチャンス、人脈も流れ込んできます。つまり働くとは、自分をアップデートし続けること。

 働くことは、しばしば苦役と見なされます。だがそれは、仕事を手段としてしか捉えていない証拠です。もしあなたが「働く」ことを「創る」ことに変換できたなら、それは人生最大の投資になります。自分自身という無形資産を触媒として、社会に最大限に活かす営み、それが「働く」ことの本質ではないでしょうか。
 働くとは、未来によって過去を変えること。


そう私は思い、明日も働きます。