アキバのつぶやき
2025.12.01
無人販売所という、信頼のインフラ
最近、無人販売所をめぐる問題が各地で話題になっています。
設置した野菜が盗まれる、代金箱のお金が抜き取られる。こうした出来事は、一見すると些末なニュースのように見えます。
しかし、その背景にある本質は「小さな盗難」の範疇を超えています。無人販売所が成り立つ前提は極めてシンプルです。「人は基本的に善意に従って行動する」という信頼です。
利用する側も、運営する側も、その前提を共有している。その上に、販売所という小さな社会システムが成立します。ところが、ある日突然、その前提が裏切られる。売り物が持ち去られ、代金箱は空になり、跡形もなく失われてしまう。このとき、失われるのは野菜や小銭ではありません。日々積み重ねてきた信頼という見えない資産が、わずかな時間で崩壊してしまうのです。
そして、その瞬間に心の中に生まれる感情。
それは「怒り」よりもむしろ「むなしさ」ではないでしょうか。対策として、監視カメラの設置という選択肢があります。防犯という観点では合理的で、一定の効果も期待できます。
しかし、無人販売所の屋根にカメラが取り付けられた瞬間、その場所の意味が変質してしまいます。本来は信頼を前提としていた空間が、「疑い」を前提とする空間へと転換してしまうのです。ここで考えるべき問いがあります。
私たちは、何を守りたいのか。盗難の防止だけを目的とするなら、カメラの設置は実務的な正解でしょう。しかし、無人販売所が果たしてきた役割を考えると、答えはもう少し複雑になります。無人販売所は、単に野菜を売る場所ではありません。地域の中に共有された倫理と文化が、形として置かれた場所です。利用する人は「誰も見ていないけれど、誰かに見られているような気持ち」で誠実に行動する。外力ではなく、内在的規律が働く仕組みです。
監視カメラは人の行動を制御します。無人販売所は、人の良心を信じる仕組みです。この差は、社会の質に大きな違いを生むと考えます。盗まれる現実があるとしても、それでもなお信頼を前提に置くこと。
それは、短期的な損得ではなく、長期的な文化形成を選び取る姿勢です。むなしいと感じるということは、まだ信じようとしている証拠です。その感情を出発点にすることで、無人販売所という小さな場所は、ただの販売ではなく、信頼の実験場になり得るのです。
2025.11.30
期限付き消耗品である人間について
私たちは、時間という資源が無限であるかのように錯覚してしまいます。けれど、人間は例外なく、使用期限のある存在です。この事実を直視することが、生きる上での本質的な視座になります。嵐山氏の言葉が重いのは、「死を想定して生を語る」という視点にあります。死から語るからこそ、日常の一瞬一瞬の価値が浮かび上がります。
もし人生が無限なら、努力も選択も先送りにすればよい。しかし、期限つきだからこそ、今日という日の重みが変わるのです。ビジネスの現場でも同じです。人材も時間も、永遠に続く前提で動き始めた瞬間から、思考は鈍ります。「いつかやる」という言葉ほど非生産的なものはありません。
成功している人や企業は例外なく、“期限”を意識します。期限があるから、集中できる。期限があるから、優先順位が決まる。期限があるから、動かざるを得ない。この構造を理解した者から成果を上げていきます。嵐山氏が言う「消耗品」という言葉もまた重要です。使うことによって価値を発揮し、使われなければ劣化していく。
人間の能力も経験も、動かなければ腐ります。「擦り減ることを恐れるより、使い切ることを喜べ」――そんなメッセージが聞こえてくるようです。人生は、消えゆく運命の上に築かれる営みです。期限を知ると、感謝が生まれます。恐れではなく、覚悟が生まれます。そして、日々の選択に迷いが減ります。
嵐山光三郎氏の冥福を祈りながら、今日あらためて思います。どう使うかが、生きる質を決めるのです。消耗品である自分を、どれだけ使い切れるか。それこそが、私たちに残された問いではないでしょうか。
2025.11.29
どうして職場を離れたくなる気持ちに気づけないのか?
「退職願が出て初めて気づく」というのは、組織マネジメントの世界では珍しいことではありません。部下が辞めるという事態は、多くの場合結果の表面にすぎません。
本当の問題は、もっと前、もっと静かな場所で起きていたはずです。コミュニケーションが滞り、心理的距離が広がり、信頼残高が徐々に減っていく。そうした兆候は、確実に存在していたはずです。退職願が提出された瞬間に「しまった」と感じるとすれば、それは問題の発覚が遅すぎたということを意味します。
つまり、手遅れに近い状態と言ってよいと思います。マネジメントは、結果を見てから動くのではなく、兆候を読み取り、介入のタイミングを逃さないことが腕の見せどころです。退職願という明確な“イベント”が発生した時点では、すでに多くの場合、当人の気持ちは離れきっています。そこから説得しても、表面を取り繕っているだけで、信頼は回復しません。
ここで大切なのは、「なぜ辞めるのか」ではなく、「なぜその前に気づけなかったのか」という問いです。企業でも行政でも、マネジメントが失敗するパターンは共通しています。忙しさを理由に、日常の対話が失われる形式的な評価制度に頼りすぎ、実感が伴わない問題が起きてから対処する“事後思考”に陥る部下が本音を言えない空気ができあがる退職願は、その積み重ねの“結果”です。
結果を悔やむより、プロセスのどこに欠陥があったかを徹底的に振り返るべきです。そうでなければ、同じことは必ず繰り返されます。
しかし、それを学びに変えるかどうかで、組織の未来は大きく変わります。退職願は、組織にとって痛みを伴う最高の教材です。その痛みを活かせるかどうか。
こにマネジメントの真価が問われるのであります。
2025.11.28
「辞職」という区切り
前橋市長の突然の辞職というニュースが世間を駆け巡りました。
内容そのものは、すでに多くのメディアで報じられているので、ここでは詳細を繰り返すことはしません。問題となった行動が、職務に対する信頼を揺るがし、市政運営に支障をきたすレベルに達した。その結果として辞職に至った。ここまでは事実関係として、淡々と理解しておけばいいと思います。
今回の件で改めて考えたいのは、「辞職」という行為がもつ意味です。辞職とは、単に職を離れることではなく、社会的な“区切り”をつける手段です。
信頼を失った状態のまま居座れば、行政は停滞し、市民は不安を抱え、政策は前に進みません。混乱を最小限に抑え、組織を前に進めるための“機能”として辞職があります。つまり辞職とは、役割と個人をいったん切り離し、組織にとって最適な意思決定を可能にするという制度的な役割を担っています。
しかし同時に、辞職には限界もあります。辞めることで問題が片づいたように見えてしまう。説明責任が曖昧なまま幕が閉じる。組織のガバナンスや倫理意識といった構造的課題が、置き去りになる危険があります。辞職は、あくまでも“スタート地点”であって、ゴールではありません。
今回の件をきっかけに本当に問うべきは、「なぜこの問題が起こったのか」「どうすれば再発を防げるのか」という未来に向けた議論です。個人の問題として片づけず、組織の本質的な問題として考える。
ただのスキャンダルとして消費するのではなく、行政の透明性を高める契機にする。この視点こそが重要だと思います。辞職は、責任を逃れるための手段ではありません。組織と社会の前進のために“余白をつくる”行為です。その余白を、どう埋め、どの方向に向かうのか。それを決めるのは、私たち市民です。
むしろ今問われているのは、辞職そのものより、辞職のあとに、何をするのか。その一点に尽きるのではないでしょうか。
2025.11.27
いつもしていることのチカラ
これは意外と、本人が一番軽く扱いがちなものです。なぜなら、日々の習慣はあまりに当たり前すぎて、特別さが見えなくなってしまうからです。しかし、ビジネスにおいても、人生においても、この「いつも」の積み重ねほど強いものはありません。
多くの人が成果を求めて派手な変化や劇的な一手に目を向けがちです。けれども、結果を左右するのは、いつも静かに積み上げられる小さな行動です。私がいつも心がけていることは、まず一日の始まりに、水を必ず飲むということです。仕事の終わりは机の上を整えて帰宅することです。
数分で終わる些細な行為ですが、これをしてから一日をスタートし、終了しますと、気持ちが澄み、判断の質が明らかに違ってきます。もうひとつ、「いつも」続けていることに、数ページですが、生きる教訓が書かれた著書を、出社前に読むという習慣があります。
読むと言うより、自分に言い聞かせるといったほうが的を得ています。たとえ数ページでも、自分への戒めとして読むことで、安心感が生まれます。不動産の仕事は、人としての関わりがすべての基盤ですから、この小さな「いつも」が結果的に大きな違いを生み出しているのだと思います。
「いつも」していることは、派手さはありません。しかし、習慣の力は、後から振り返ったときにこそ、圧倒的な差になって現れます。結局、人生の質も、仕事の実力も、細部で決まるのではないでしょうか。その人の「いつも」にこそ、その人らしさが宿っています。変化を焦る前に、自分の「いつも」を見直してみる。
そこに、次の一歩のヒントがあると感じています。