アキバのつぶやき

2025.12.12

震える

 昔の中国では、「蜃(しん)」という海の生き物が怪異をもたらすと信じられていたそうです。蜃は海中に棲み、気を吐いて空に幻の城を描く。その現象は、いまも「蜃気楼」という言葉として残っています。

 科学が未発達だった時代、人々は「見えない現象」を「見える姿」に置き換えて理解しようとしました。地震の「震」という漢字を眺めてみると、そこにも同じ発想を見ることができます。

 上に「雨」、下に「辰」。天の異変と、地のうごめきが一つの文字に封じ込められている。地下で何かがたまり、限界に達したとき、世界はふるえる。彼らはそれを「蜃」や「龍」の動きとして表現しました。

 いま私たちは、プレートの歪みや断層のずれという言葉で地震を説明します。しかし、構図そのものは昔とほとんど変わっていません。見えない場所で力が蓄積され、ある瞬間に解放される。そのイメージを、かつては生き物の姿に託し、いまはグラフや数式に託しているだけのことです。

 漢字というのは、単なる記号ではなく、古代の「世界の理解のしかた」が化石のように凝縮されたものだと思います。

  

2025.12.11

残価という希望的観測に注意

 最近、「残価設定型住宅ローン」という耳慣れない言葉をよく目にするようになりました。自動車ではすでに一般的になりつつある仕組みを、住宅にも応用しようという発想です。

 月々の返済額を抑えながら、少し背伸びした住まいを手に入れやすくする。聞こえはとても魅力的です。しかし、住宅とクルマの決定的な違いは「市場の前提条件」にあります。

 クルマは時間の経過とともに価値が下がることを前提にした商品設計です。一方、日本の住宅市場は、建物価値がほぼ確実に下落するという歴史的な経験則の上に成り立っています。つまり、残価設定型という仕組みは、日本の住宅市場においては「合理的な金融商品」というよりも「希望的観測を組み込んだ販売装置」に近い性格を持っているように見えます。

 さらに、日本は人口減少と空き家増加という構造変化の真っただ中にあります。需要が縮小する市場で将来価値を前提にするというのは、「坂道を登りながら追い風を期待する」ような行為に似ています。理論としては美しいのですが、足元の地面があまりにも現実的です。

 金融商品の設計には、しばしば「優しさ」が組み込まれます。月々の支払いを軽くする、選択肢を広げる、不安をやわらかく包み込む。しかしその優しさは、多くの場合、時間軸の後ろ側に負担を押し出すことによって成立しています。残価設定型は、まさにその典型例です。

 住宅ローンは本来、家を買うためのお金の話ではなく、「どのくらいのリスクなら引き受けられるか」という人生設計の話です。月々の支払いが軽くなるという事実は、家計にとって魅力的です。しかし、本当に問うべきは「軽くなった分の重さが、どこへ移動したのか」という点でしょう。

 残価とは、未来に対する静かな賭けです。その賭けに勝つかどうかは、市場でも金融機関でもなく、たいていは運によって決まります。だからこそ、安く買える仕組みほど、慎重に見つめる価値があるのだと思います。

2025.12.09

キャバクラと政治資金

 政治資金でキャバクラ代を支払っていた、という話を聞いて、まず思うのは「それは違法かどうか」ではなく、「それは美しいかどうか」という問いでした。制度はグレーでも、感覚としてアウトなものは、だいたいアウトなのです。

 政治資金とは、本来「公のために集められたお金」です。つまり、それは「私」のお金ではなく、「私たち」のお金です。そのお金を、私的な享楽に近い場所で使う。これは会計の問題というより、想像力の問題だと思います。自分が使った一万円の向こう側に、顔も名前も知らない誰かの努力や期待がある、という想像力です。

 尊敬している経営学者の楠木さんなら、おそらくこう言うでしょう。経営でも政治でも、本当に怖いのは不正そのものではなく、「鈍感さ」だと。悪意がある人はまだ救いがあります。自覚があるからです。

 厄介なのは、「これくらい普通だろう」と思ってしまう無自覚です。倫理が壊れる瞬間は、たいてい大きな決断ではなく、小さな「まあいいか」の積み重ねで起きます。
キャバクラが悪いわけではありません。仕事帰りに一杯飲んで、人に癒される時間もまた、人間らしさの一部です。

 ただし、それを「誰のお金でやっているのか」という一点で、世界はまったく違って見えます。
公と私の境目は、法律の条文よりも先に、「ここは越えたら格好悪い」という内側の線で決まります。その線が引けなくなった組織や人は、いずれ制度の隙間ではなく、信頼の崖から落ちていきます。

 政治家に求められているのは、清廉潔白な聖人性ではありません。ただひとつ、「これは自腹で払おう」と自然に思える感覚です。その感覚が残っている限り、民主主義は、まだギリギリ大丈夫だと思うのです。

  忘年会シーズンです。自腹なら欠席、会社の経費なら参加するという社員もいると聞きます。その心の色にその会社の未来がうっすらと浮かび上がります。

2025.12.08

お米券に感じる、善意の誤謬

 最近、お米券の発行をめぐって、自治体から反発の声が多く上がっているというニュースがありました。一見すると不思議な話です。困っている人にお米を届ける。これほど分かりやすく、これほど善意に満ちた政策はなさそうに見えます。

 それなのに、なぜ現場は戸惑うのでしょうか。ここに、経営の世界でもよく見かける「正しさの罠」が潜んでいるように思います。中央は「良いことをやっている」という確信を持っています。数字上も分かりやすい。〇〇万人に配布、総額いくら。説明もしやすい。しかし、自治体という現場にとっては話がまったく違います。

 配布の事務、対象者の選定、問い合わせ対応、不正防止。これらすべてが自分たちの仕事として降ってくる。しかも、それは本来の仕事に「追加」されるかたちで発生します。
経営の世界で言えば、本社が現場の負荷を想像しないまま新しい施策を打ち出すのと構造は同じです。現場が疲弊するのは、仕事量が増えるからではありません。

 「自分たちの裁量でコントロールできない仕事」が増えるからです。自治体の反発は、政策そのものへの拒否というより、「主導権を奪われること」への違和感なのだと思います。
お米券という仕組みは、支援を「モノ」にひもづける発想です。しかし本来、困りごとは人によって異なります。

 米が必要な人もいれば、光熱費を優先したい人もいる。にもかかわらず選択肢を狭める。これは企業が顧客の都合を考えず、売りたい商品だけを押し付ける姿に似ています。

 善意で設計された制度ほど、現場を苦しめることがあります。大事なのは「何を配るか」ではなく、「誰が、どれだけ自由に動けるか」です。よかれと思って設計した仕組みが、実は自由を奪っていないか。この問いを忘れたとき、政策も経営も静かに壊れていくのだと思います。

2025.12.05

うなぎ

 私は、うなぎは年に一度食べるか食べないかで、あまり好物ではございません。先日、鰻の輸入規制が強まるというニュースを見ました。

 世間の鰻好きにとっては、あぁ、またひとつ、季節の楽しみが遠ざかるのかな。そんな気持ちが胸の奥に、ニョロっと細い線が引かれました。
けれど、よく考えてみると、うなぎは私たちが勝手に“いつでも食べられるもの”と思っていただけで、本当は気まぐれな自然の恵みなのですよね。生き物が相手なのだと思い直しました。

 それでふと、落語の「しわい屋」という演目があるのを知りました。
その噺では、しわい屋の店先で焼かれるうなぎの、あの香ばしいにおいだけを味わって、持参したご飯を食べて帰ろうとする客が出てきます。しわい屋の店主は、そんな客に向かって「におい代を払え」と言ってくる。なんとも小うるさいけれど、どこか憎めない人物です。
 
 でも、においにお金を払うなんて、普通なら誰も考えません。そういう“あり得ない話”が、落語の心地よさでもあります。
とはいえ、しわい屋の店主が「においにも値段がある」と言ったとき、その言葉が妙に頭に残りました。私たちが「ただ」と思って味わっているものにも、実はどこかで誰かが負担をしていることがあるのかもしれません。

 うなぎの輸入規制の話も、そういう感覚に似ています。お店でふんわり漂うタレのにおい。土用の丑の日の風景。それを“当然の夏の楽しみ”として受け取ってきた私たちのほうが、もしかしたら、しわい屋の店先でにおいだけ楽しんでいく客に近かったのではないか。そんな気がしたのです。
 
 もちろん、誰が悪いとか、何がいけないとか、そういう話ではありません。ただ、うなぎが減っているのだとしたら、私たちのほうも少し足元を見る必要があるのでしょう。
 
 来年は、土用の丑の日に「必ずうなぎを」とは思わないでみる。その代わりに、香ばしいにおいを想像しながら、季節の移ろいにそっと耳を澄ませてみる。そういう夏の過ごし方があってもいいのかもしれません。

 しわい屋の店主が言いたかったのは、“においも価値のひとつだ”ということでした。
ならば、私たちもまた、うなぎという生き物の価値を、においより深いところで感じ直す時期に来ているのだと思います。