アキバのつぶやき

2025.12.28

イップスについて

 本年は、レジェンドの訃報を多く耳にしました。野球界では長嶋茂雄氏。サッカー界では釜本邦茂氏。そしてゴルフ界では、尾崎将司氏です。それぞれの分野に一流と呼ばれ天才と揶揄される人が、それぞれの時代に存在します。

 そんな中、ゴルフの世界で語られる「イップス」は、しばしば技術の問題として扱われます。しかし、ジャンボ尾崎氏の言葉や経験を振り返ると、イップスの正体は技術ではなく「心」にあることが分かります。

 正確に言えば、結果に意味を与えすぎてしまうことが原因です。本来、1メートルのパットは物理的には変わらない距離です。しかし、「これを外したらどうなるか」という意味が過剰に乗った瞬間、その1メートルは別物になります。体は動くのに、手が言うことをきかなくなる。これは能力の欠如ではなく、意味の暴走です。

 この構造は、営業の現場でもまったく同じです。営業成績が落ち始めたとき、多くの人は「トークが悪い」「提案が弱い」と原因を外に求めます。しかし実際には、過去の失注体験や、上司からの苦言や仲間からの失笑が心の中に残り、次の商談で無意識のブレーキをかけてしまうケースが少なくありません。

 「また断られるかもしれない」、「嫌なことを言われる」という思考が、声のトーンや間の取り方に表れてしまうのです。
ここで重要なのは、イップスを「克服すべき敵」として扱わないことです。ジャンボ尾崎氏が示しているのは、もっと単純で、しかし厳しい態度です。

 外してもいい。断られてもいい。それでも打つ。それでも会いに行く。これは精神論のようでいて、実は極めて合理的です。結果に過剰な意味を与えないためには、「失敗しても世界は続く」という前提に立つしかありません。

 入れにいくパットほど入らないのと同じで、売ろうとする営業ほど売れなくなる。どちらも「当てにいく」姿勢が、パフォーマンスを壊します。
営業において本当に重要なのは、勝率を上げることではなく、勝負から降りないことです。

 ジャンボ尾崎氏が何度も復活してきた背景には、結果よりも行為を続けるという一貫した態度があります。
イップスとは、弱さの証明ではありません。むしろ、真剣に勝負してきた人だけが直面する現象です。

 だからこそ、避けるべきものではなく、構造として理解すべきものなのです。
営業もゴルフも、最後に残るのは同じ結論です。振り切ること。意味を乗せすぎないこと。そして、続けること。それが、イップスと共に生きるための、最も現実的な戦略ではないでしょうか

2025.12.27

説明について雑感

 先日、京都法務局に出向いたときに、来年一月より登記台帳の申請費用が変更されるという説明を受けました。私の理解力が足りないのですが、全く理解できず、その場を繕いました。私の偏見だと思いますが、どうも国の説明はどの分野でも理解できにくいのが多いと思うのです。年金は最たるものです。わざと解りにくくしているのかと思うほどです。

 さて、不動産の取引でも、「分かりやすくしてほしい」と言われやすい分野はありません。重要事項説明書、契約書、法令制限、ローンの条件。説明する側は真面目に話しているのに、聞く側は途中から思考停止してしまう。これは能力の問題ではなく、設計の問題です。

 不動産の説明が分かりにくくなる最大の原因は、「全部説明しようとすること」にあります。宅建業法上、説明すべき事項が多いのは事実です。しかし、説明すべきことと、理解してもらうべきことは同義ではありません。ここを取り違えると、説明は一気に難解になります。

 分かりやすい不動産説明の第一歩は、「この物件で一番大事な判断軸は何か」を一つに絞ることです。たとえば、「この物件は資産としてどうか」「住み心地はどうか」「将来売れるか」。

 すべて重要ですが、同時には理解できません。ですので、商談のたびに、今日はどれを持ち帰ってもらうのか。そこを決めるだけで、契約時の重要事項説明の骨格が定まります。

 次に必要なのは、「知らなくても困らない情報」を意識的に後ろへ回すことです。 用途地域や建ぺい率・容積率は重要ですが、購入者が何を実現したくて、この物件を購入しようとしているのか、最大の重要事項です。

 「この物件では、あなたの実現したい夢と建築物は可能です」。
ここが腹落ちすると、細かい数字はあとから自然に入ってきます。
不動産説明も「因果を一本にする」作業です。価格が高い理由、安い理由。便利なのに売れ残っている理由。何か一つ、納得できるストーリーを提示することです。

 さらに重要なのは、説明のゴールを「理解」ではなく「次の行動」に置くことです。良い不動産説明とは、「分かりました」で終わる説明ではありません。「もう一度現地を見たい」「家族に相談したい」「ローンの事前審査をしてみたい」。この一歩が自然に出てくるかどうかが成否を分けます。

 最後に、不動産説明で最もやってはいけないのは、「専門用語で安心させようとすること」です。専門用語は信頼を生むどころか、距離を生みます。信頼は、難しい言葉ではなく、シンプルな因果から生まれます。

 不動産の説明が分かりやすいとは、親切に全部話すことではありません。相手が判断するために必要な一本の軸を示し、そこから外れる情報を勇気をもって削ることです。説明とは、情報提供ではなく、意思決定の設計なのです。

2025.12.26

レジェンド

 ジャンボ尾崎氏の訃報に接し、「レジェンド」という言葉について、あらためて考えさせられました。
ジャンボ尾崎」正式には尾崎将司氏。日本ゴルフ界において、この名前を知らない人はいないでしょう。通算113勝。数字だけを見ても異常値です。

 しかし、ジャンボ尾崎の本質は、勝利数の多さそのものではありません。むしろ、彼が長い時間をかけて築き上げた「物語」にこそ、レジェンドたる所以があります。
ビジネスの世界でもそうですが、レジェンドとは単なる成功者ではありません。一時代を象徴し、その時代のルールや価値観そのものを変えてしまう存在です。

 ジャンボ尾崎は、日本のゴルフを「趣味の延長」から「プロが職業として成立する世界」へと引き上げました。賞金額、トレーニング、プロ意識。どれも彼が基準を引き上げた結果です。
興味深いのは、ジャンボ尾崎が「孤高」であり続けた点です。弟子は多く育てましたが、決して迎合しない。派閥にも属さず、流行にも流されない。

 これは戦略論で言えば「非対称性の徹底」です。周囲と同じことをしないからこそ、比較不能な存在になった。レジェンドとは、比較されない人のことなのです。
また、彼は勝ち続けること以上に「衰えをさらすこと」から逃げませんでした。年齢を重ねてもツアーに出続け、勝てなくなった自分を引き受ける。

 その姿勢は、成果主義が行き過ぎた現代において、むしろ重みを増して見えます。レジェンドとは、成功の頂点ではなく、成功から下る坂道も含めて語られる存在なのだと思います。

 ジャンボ尾崎の訃報に触れて感じるのは、ひとつの時代が終わったという感慨と同時に、「もう同じタイプのレジェンドは生まれにくいだろう」という現実です。

 効率化、最適化、データ重視の時代において、破天荒で、個の圧力だけで時代を動かす存在は、構造的に生まれにくい。
だからこそ、ジャンボ尾崎はレジェンドなのです。再現性がない。教科書にしても、その通りやっても同じ結果にはならない。その不可解さ、説明不能さこそが、レジェンドの条件なのだと思います。

合掌。

2025.12.25

カリスマ創業者

 ニデックの創業者である永守重信氏が、突然、経営の第一線から退くというニュースがありました。多くの人が驚いたと思いますが、私はこの出来事を「事件」としてではなく、「必然」として見たほうが理解しやすいのではないかと感じています。

 永守氏は、日本の経営者の中でもきわめて例外的な存在です。強烈な意思、圧倒的な行動量、そして細部にまで及ぶ執念。ニデックという会社は、良くも悪くも、その人格がそのまま組織化された企業でした。創業者経営とはそういうものですし、むしろそれがあったからこそ、ニデックは世界企業になったのだと思います。
 
 しかし、創業者の強さは、ある段階から「強み」と「制約」の両方になります。創業者が正しすぎると、組織は学習しにくくなる。判断が速すぎると、周囲は考える前に従うようになる。これは能力の問題ではなく、構造の問題です。

 今回の辞任が示しているのは、経営の成否ではなく、経営のフェーズが変わったという事実でしょう。創業者が前に立って引っ張る段階と、組織が自律的に回る段階は、必要とされるリーダーシップがまったく異なります。両方を同じ人が完璧にやるのは、ほとんど不可能です。
 
 ここで重要なのは、「後継者が誰か」よりも、「創業者がいない状態で、意思決定が回るかどうか」です。個人のカリスマに依存していた企業ほど、この移行は難しい。だからこそ、辞任は遅すぎても、早すぎてもいけない。
 
 永守氏の辞任は、ニデックにとってのリスクであると同時に、最大のチャンスでもあります。創業者の影から自由になったとき、会社は初めて自分自身の実力を問われる。ここを越えられるかどうかで、ニデックが「偉大な創業者の会社」で終わるのか、「創業者を超える組織」になるのかが決まる。

 創業者が去るとき、その企業は成熟するか、弱体化するか、どちらかです。永守氏の突然の辞任は、その分岐点が、いまここにあるということを静かに示しているのだと思います。

2025.12.23

冬至

 昨日は冬至でした。一年でいちばん昼が短い日です。 
冬至というと、「これから日が長くなる」とよく言われます。たしかに暦の上ではそうなのですが、体感としては、まだまだ寒さはこれからが本番です。

 明るくなる感じもしないし、気分が急に前向きになるわけでもありません。 でも、冬至には不思議な安心感があります。「いちばん底の日」だと、はっきり決まっているからです。

 ここから先は、少しずつですが、必ず昼は長くなっていく。その事実が、静かに背中を支えてくれます。かぼちゃを食べたり、ゆず湯に入ったりするのも、無理に元気を出すためではなく、「ちゃんと今日を越えましたよ」という合図のようなものなのかもしれません。

 理由を細かく知らなくても、毎年同じことをするだけで、季節と足並みがそろいます。冬至は、何かを始める日というより、「折り返し地点に来ました」と確認する日と思います。派手な節季ではありませんが、だからこそ、生活の中にすっとなじむ。昨日は特別なことはせず、早く暗くなる空を見て、「ああ、今日は冬至か!」と思うだけでした。それで十分です。

 寒さの底に立っていると知るだけで、人は案外、落ち着いていられるものです。