アキバのつぶやき
2025.12.19
年収の壁は撤廃できないのだろうか?
年収の壁が178万円まで引き上げられることで、自民党と国民民主党の税制調査会長が合意した、というニュースが流れました。数字だけを見ると、また少しややこしい話が増えたな、という印象を持つ人も多いかもしれません。
しかし、こういう制度変更は、たいてい「理屈」よりも「現場」で効いてきます。私はいつも、そこがいちばん大事だと思っています。年収の壁というのは、制度としてはとても人工的なものです。ある金額を一円でも超えると、手取りが減る。働いた分だけ報われない、という奇妙な段差が存在してきました。
その結果、多くの人が「これ以上は働かないほうが合理的だ」という判断をしてきたわけです。これは怠けでもズルでもなく、きわめてまっとうな意思決定です。今回、その壁を178万円まで引き上げるという合意は、少なくとも「働きたい人が、働くことをためらわなくてよい」方向に一歩動いた、という意味では評価できると思います。
重要なのは、これが減税かどうかという議論ではありません。人の行動がどう変わるか、です。企業経営の世界でも同じですが、人はインセンティブに極めて素直に反応します。制度設計が「やらない方が得」になっていれば、人はやりません。逆に、「やった方が自然に得」になっていれば、わざわざ号令をかけなくても動きます。
年収の壁とは、まさにその典型でした。ただし、ここで安心してはいけません。壁を動かすたびに、また別の場所に新しい壁ができる。制度をパッチワークのように直していく限り、この問題は形を変えて残り続けます。
本来問われるべきは、「なぜ壁が必要なのか」という設計思想そのものです。178万円という数字は、ゴールではなく、通過点です。大切なのは、この合意をきっかけに、「人が自然に働ける制度とは何か」を考える議論が始まるかどうか。そこにこそ、このニュースの本当の価値があるのだと思います。いろいろな壁が世の中には存在します。壁は出来るだけ無いほうがいいとおもうのですが、いかがでしょうか。
2025.12.18
表記統一について
ヘボン式ローマ字の表記を統一しよう、という話を聞くと、私はいつも「便利って、どこまでが便利なんだろう」と考えます。ヘボン式というのは、日本語をアルファベットで書くときに、できるだけ“発音どおり”に見せようとした仕組みです。
だから「し」はshiだし、「つ」はtsuになります。英語を知っている人には、たしかに親切です。問題は「ん」です。「しんぶん」がshimbunになったり、「さんぽ」がsampoになったりする。これは間違いではなく、実際の発音に近づけた結果です。でも、ここで人は少し立ち止まります。「同じ『ん』なのに、どうしてnとmが混ざるの?」と。
表記統一をしよう、という声は、たぶんこの“立ち止まり”を減らしたいのだと思います。ルールは一つのほうが覚えやすい。コンピュータにもやさしい。役所の書類も混乱しない。たしかに、そのとおりです。でも、言葉って、もともとそんなにきれいに揃っていないものです。
人の口は、生きものですから、次に来る音に合わせて、ちょっとサボったり、ちょっと近道をしたりする。「ん」がmに近づくのも、がんばらないための知恵です。ヘボン式は、その“がんばらなさ”を、そのまま写そうとした、とも言えます。
統一する、というのは、乱れを正すことのようでいて、実は、こぼれ落ちる情報もあります。発音の気配とか、口の動きとか、「あ、こう言ってるんだな」という身体感覚です。
全部をnにしてしまえば、整いますが、少し平らにもなります。たぶん大事なのは、「どちらが正しいか」ではなく、「何のために使うか」です。パスポートやデータ管理では統一が強い。
言葉の面白さや、人間っぽさを味わうなら、揺れも悪くない。ヘボン式の「ん」がnとmに分かれるのは、優柔不断だからではありません。人の口が、ちゃんと人であることを、忘れないようにしているだけなんだと思います。そう考えると、ちょっと愛おしくなってきませんか。
2025.12.15
あなたは「通」ですか、それとも「推し」ですか?
でも、最近はどうでしょう。「通ですか?」と聞くよりも、「推してますか?」と聞く場面のほうが多い気がします。この「推す」という言葉、よくできています。くわしいかどうかは、あまり問題にしていない。体系的に説明できなくてもいい。「なんか好きなんです」「気になっちゃって」という、それだけで成立する。
これは、言葉が軽くなったのではなく、人の立ち位置が変わったのだと。「通」は、どこか少し高いところから見ている言葉でした。対象を理解し、評価し、語る側。一方で「推す」は、対象のすぐそばに立っています。完成度よりも、距離の近さ。正しさよりも、関係性。
情報が少なかった時代は、知っていること自体が価値でした。でも今は、知識はすぐに手に入る。だからこそ、「どう感じているか」「どれだけ時間を使っているか」が、その人らしさになる。推し活というのは、熱狂ではなく、日常に近い行為かもしれません。 成長を見守ったり、失敗に一緒にがっかりしたりする。それは鑑賞というより、応援であり支援です。
「通」は、完成品を味わう人。「推す」は、途中経過を一緒に生きる人。どちらが上という話ではありません。ただ、今の時代は、「好きです」と言える人の声が、少し前よりも大事にされている。それは、悪くない変化だと思います。詳しくなくてもいい。うまく説明できなくてもいい。それでも、何かを大切に思っている。「推す」という言葉には、そんな人の居場所が、ちゃんと用意されている気がするのですが、皆様はどう感じられますか?
2025.12.14
置き配という制度について
玄関先に荷物が置かれている。置き配という仕組みは、今や珍しいものではなくなりました。にもかかわらず、どこかまだ「仮の制度」のような、落ち着かなさも残っています。盗まれたらどうするのか、安全なのか。そうした不安の声は根強くあります。
ビジネスの面から考えますと、置き配はきわめて戦略的な選択です。再配達という非効率を減らし、ドライバーの負担を軽くし、社会全体のコストを下げる。その代わりに、ごく小さな不確実性を引き受ける。これは「完璧な安全」を追わず、「全体最適」を取りにいく、明確なトレードオフです。100点を目指さないからこそ、80点が持続する。置き配は、その好例でしょう。
一方で、別のところから目を向けると、置き配の本質は、効率よりも「生活のリズム」にあると、とらまえることもできます。チャイムに縛られず、在宅を気にせず、暮らしを中断しなくていい。玄関にそっと置かれた箱は、「あなたの都合で受け取っていいですよ」という、やさしい合図のようにも見えます。
考えてみれば、置き配は「信頼」を前提にした仕組みです。ただし、それは堅苦しい信頼ではありません。「まあ、大丈夫でしょう」という、少し肩の力を抜いた信用です。この“ゆるさ”がなければ、どれほど合理的でも社会には定着しません。合理性だけでは人は動かず、気持ちだけでは仕組みは続かない。
置き配が広がりつつあるのは、戦略としての正しさと、暮らしとしての心地よさが、たまたま同じ方向を向いているからです。段ボール一箱を信じられるかどうか。それは物流の話であると同時に、私たちがどんな社会で生きたいのか、という問いでもあります。
置き配とは、小さな箱に入った、成熟した社会への試金石なのかもしれません。
2025.12.13
米ではなく熊になった
今年の漢字が「熊」に決まったというニュースを見て、なるほどなあと思いました。山に住む大きな動物が、いまや都市近郊にも堂々と出没する時代です。単なる生態系の話ではなく、人間側の「生活の設計」と「時間の使い方」が揺れている象徴のようにも感じます。
一方で、今年は「米(こめ)」が来るのではないかと予想していた方も多かったでしょう。お米券の議論、米価の乱高下、各地の不作といったニュースが続いたからです。しかし結果は「熊」。ここには、事象の“量”ではなく、人々の心に残った“質”が反映されています。
「感情のヒット率」の高さが勝負を決めた、というところでしょう。「米」は生活の基盤として確かに大切です。そこに文句のつけようはありません。ただ、お米の話は概して「構造的な課題」の領域に入ります。気象変動、農政、需給調整など、論点が多く、じっくり腰を据えなければ語れません。人々の心に“瞬間的に”刺さるというよりは、長期的に効いてくるテーマです。
対して「熊」は、一匹の目撃情報が一気に全国の話題になります。「また出たのか」「どうしてこんな場所に」という驚きが、まさに“物語性”を伴って届きます。人間の生活圏と自然の境界が曖昧になっていることを、象徴的に示している出来事です。ヒットコンテンツの条件は「意外性と納得感の同時成立」だとよく聞きますが、「熊」にはそれがありました。「そりゃそうだよな」と「まさかね」が一緒に訪れるのです。
今年の漢字が「米」ではなく「熊」だったという結果は、世の中の受け止め方における“重心の移動”を映し出しているように感じます。「日々の暮らしに関わる地続きの不安」と「突発性のショック」。この二つの間で、私たちの注意の配分は常に揺れているのです。
来年の漢字がどうなるかは誰にもわかりません。ただ、一つだけ言えるのは、こうして毎年選ばれる一文字が、社会の“思考の座標軸”を静かに教えてくれているということです。「熊」が選ばれた今年は、人と自然、人と社会の境界線をもう一度引き直す年だったのかもしれません。