アキバのつぶやき
2026.01.30
不動産経営に潜む「逸脱の正常化」という静かなリスク
不動産業は、法律と実務のあいだに成立している産業です。宅建業法、借地借家法、各種条例。ルールは細かく、しかも一見すると分かりにくい。
その一方で、現場ではスピードや柔軟な対応が求められます。この構造こそが、「逸脱の正常化」を生みやすい土壌だと思います。たとえば、重要事項説明が形式的になっていないでしょうか。契約書の条文を「いつも通り」で流していないでしょうか。
本来は確認すべき説明や手続きを、「この案件では大丈夫だろう」という判断で省略していないでしょうか。最初は例外のつもりでも、問題が起きなければ、それは次第に「普通のやり方」になります。
不動産業の怖さは、こうした逸脱がすぐには表面化しない点にあります。契約は成立し、取引は完了し、売上も立つ。だから疑われない。しかし、トラブルが起きたとき、過去の「普通」は一気にリスクに変わります。
説明不足、記録の欠如、判断の曖昧さ。その多くは、悪意ではなく、合理性や慣れの結果です。ここで重要なのは、現場を責めることではありません。むしろ、守れないルールを放置してきた組織や業界の構造そのものが問われるべきでしょう。
ルールと実態が乖離すれば、人は実態のほうに従います。不動産業の信頼は、「大きな成功」ではなく、「小さな逸脱を放置しない姿勢」によって支えられています。
経営とは、売上を伸ばすこと以上に、「普通」の基準を意識的に維持し続ける行為なのだと思います。
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2026.01.29
髪の色が語っているのは、思想ではなく立ち位置です
今月27日に衆議院議員選挙の公示が行われ、党首がメディアにあつまり、討論していました。それぞれに党の掲げる公約や主張を繰り広げていましたが、私はその内容よりも、野党女性党首の髪の毛の色が、いずれも茶色であったことが気になりました。
共産党の委員長や、れいわ新選組の共同代表を見ていて、ふと気づくことがあります。髪の色が、いわゆる「政治家らしい黒」ではなく、やや茶色い。この違和感は、実はなかなか示唆的です。
もちろん、そこに思想的な必然性はありません。共産主義だから茶髪、反体制だから染めている、という単純な話ではございません。これは思想ではなく、記号の選択です。
日本政治において、長い間「黒髪・濃紺スーツ・硬い表情」は、信頼と権威の象徴でした。国家を背負う者の記号として、非常に分かりやすかった。しかし今、その記号は少し古びて見え始めています。若い世代にとって黒髪は、安心よりも、既得権や昭和的価値観を連想させる場合があります。
共産党やれいわが担っている役割は、明確です。既存の権力構造への批判であり、中央の論理からこぼれ落ちた声を拾うこと。その立ち位置において、威圧感や「先生感」はむしろマイナスになります。
彼らの主張は、実はかなり強い。分配、国家、経済の再設計。中身は十分にラディカルです。だからこそ、外見まで強くすると、受け手は身構えてしまう。思想を通すために、見た目を柔らかくする。ここには、無意識というより、時代適応があります。
今の政治は、正しさを競う場ではなく、共感を獲得する場です。上から語る指導者より、「隣で同じ怒りを共有する人」が求められている。茶色い髪は、その距離感を縮めるための調整弁です。髪の色は政策を語りません。
しかし、その人が「誰として話したいのか」は雄弁に語ります。黒でも茶でもなく、問われているのは、どの地平に立って言葉を投げるのか。その選択が、今の政治には以前にも増して重くなっているように思います。
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2026.01.27
誰が悪いかではなく、何がそうさせたのかが重要!
東大教授による接待強要が問題になっています。肩書きを見れば、誰もが驚き、失望します。「東大教授がそんなことを」と。でも、ここで問うべきは個人の資質ではなく、なぜそれが可能だったのかという構造です。一昔前、いやもっと前、「ノーパンしゃぶしゃぶ」という接待で現財務省の幹部が摘発され、世間を騒がしたことがありました。
接待とは、本来、対等な関係の中で自然発生的に行われるものです。それが「強要」になった瞬間、すでに接待ではありません。力の非対称性があるところに、暗黙の了解が生まれ、それが常態化すると、誰もおかしいと思わなくなります。
大学、とりわけ名門大学は、知の共同体であると同時に、強い序列を持つ組織です。研究費、評価、人事、推薦。これらが一部の人に集中すると、「断れない空気」が生まれます。ここで問題なのは、誰かが悪いことをした、というより、断れない設計が放置されていたことです。
よくある反応は、「倫理教育が足りない」「意識改革が必要だ」というものです。しかし、35年続く不正が個人の問題ではなかったように、今回もモラルの話で終わらせてはいけません。人は環境に適応します。おかしな環境では、おかしな行動が合理的になってしまう。
優秀であることと、権力を持つことは別物です。ところが組織はしばしば、その二つを同一視します。結果として、能力への敬意が、権力への忖度にすり替わる。その瞬間から、接待は文化になります。
この問題が突きつけているのは、「誰を処分するか」ではありません。権威が集中したときに、それをどう分散させるのか。そこに手をつけない限り、名前を変えて同じことが起きます。人はそんなに悪くありません。 しかし、組織は設計を誤ると、平気で人を黙らせます。今回の件は、そのことを改めて教えてくれています。
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2026.01.26
消費税がゼロという公約について
自民党が掲げた「消費税ゼロを加速的に」という公約は、聞いた瞬間の分かりやすさという点では、非常に強い言葉です。物価高に苦しむ生活者にとって、「税がなくなる」というメッセージは、理屈より先に感情に届きます。その意味で、この公約は“よくできた言葉”です。
ただし、ここで一度立ち止まって考える必要があります。消費税ゼロは政策なのか、それとも気分への対応なのか、という点です。消費税は、日本の社会保障を支える基幹税です。それをゼロにするということは、家計で言えば固定費を一時的に帳簿から消すようなものです。
短期的には楽になりますが、その先をどうするのかという設計がなければ、問題は先送りされるだけです。今回の公約で特徴的なのは、「ゼロ」以上に「加速的に」という表現です。これは政策用語ではありません。
実行時期、対象範囲、代替財源といった具体論が曖昧なまま、スピード感だけが強調されています。つまり、これは設計図というより、ムードを伝える言葉です。なぜ今、これが出てきたのでしょうか。
その背景を考えると、日本経済の構造的な問題に正面から向き合う難しさが見えてきます。賃金は上がらず、将来不安は消えない。こうした問題に答えるには時間がかかります。一方、消費税ゼロは即答でき、反発も少ない。
選挙においては、極めて使いやすいメッセージです。でも、即効性のある策ほど、戦略にはなりにくいのが世の常です。大切なのは、消費税をどうするかではなく、その先にどんな国をつくりたいのか、という物語です。
その物語が語られない限り、減税は支持を集めても、未来はつくれません。消費税ゼロが悪いのではありません。問われているのは、その覚悟と設計です。 そこを語らずに掲げられた公約は、政策というより、その場をしのぐための言葉に見えてしまいます。
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2026.01.25
ひふみんから考える、「負け」というビジネスの作法
先日亡くなられた将棋棋士・加藤一二三さん、いわゆる「ひふみん」の歩みを振り返ると、「負け」というものの捉え方について、ビジネスにも通じる重要な示唆が見えてきます。
将棋は勝ち負けが極端に明確な世界です。対局が終われば、必ずどちらかが負ける。そして、「負けました」と発言し、一礼し投了となります。しかもその事実は、記録として半永久的に残ります。
ひふみんはその世界で、勝利と同じくらい、いやそれ以上に多くの敗北を経験してきました。それでも彼は、負けを人生の汚点のようには扱いませんでした。
一方ビジネスの現場では、負けを過剰に恐れる傾向があります。失注、撤退、失敗プロジェクト。これらは往々にして「なかったこと」にされ、語られなくなります。しかし、これは戦略的に見ると非常にもったいない。
それは、負けというものは、もっとも情報量の多いデータだからです。ひふみんの特徴は、負けを感情から切り離していた点にあります。負けた将棋を淡々と振り返り、「ここが悪かった」と局面単位で語る。そこに自己否定はありません。
これはビジネスでも同じです。負けを人格や能力の問題にしてしまうと、学習は止まります。必要なのは、意思決定と結果を切り分ける冷静さです。また、ひふみんは勝ちに執着しすぎなかった棋士でもあります。常に「この局面での最善手」を考え続けた。その結果として勝つこともあり、負けることもある。
この姿勢は、短期的成果に振り回されがちなビジネスにおいて、非常に示唆的です。負けとは、終わりではありません。次の一手を考えるために、盤面が更新されたという事実にすぎないのです。
ひふみんの人生が教えてくれるのは、勝ち続ける方法ではなく、負けを使い続ける知性です。ビジネスにおいても、長く成果を出し続ける人や企業ほど、負けを隠さず、誇張せず、静かに活用しているのだと思います。
加藤一二三先生のご冥福をお祈りいたします。
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