アキバのつぶやき
2025.11.21
変わらないために、変わり続ける!
「動的平衡」という言葉があります。生物学者の福岡伸一氏が広めた概念で、生命は常に変化し続けることで、結果として安定を保っているという考え方です。私はこの言葉を、ビジネスや人生の本質を見抜くための強いヒントとして受け止めています。
世の中では、「安定」というと、変化しない状態を良しとする傾向があります。同じ場所に留まり続けることが安心である、と考えがちです。でも、動的平衡の視点から見ると、実はその逆なのです。変わらずに留まるということは、止まることであり、止まるというのは衰退の始まりなのです。
私たちの体は常に入れ替わっています。皮膚は一ヶ月で全て更新されますし、骨だって数年で新しいものに置き換わります。タンパク質は数日単位です。私たちは「同じ体」で生きていると思っていますが、実は刻々と別の自分に更新され続けています。これが生命の仕組みです。変わり続けることで、同一であり続ける。
企業に置き換えても同じです。成功した企業がその成功パターンに固執した瞬間に、競争力は落ち始めます。成長を続ける企業は、自らの強みを壊し、常に新しい挑戦を生み出し続けています。過去の勝ちパターンを延命するのではなく、それを越えていく。まさに流れ続けるからこそ、存在し続けられるという構造です。
個人のキャリアも動的平衡そのものです。職場でも、変化を避けて「現状維持」を望む声は多いものです。しかし、現状維持という戦略は存在しません。「変わらずにそこにいよう」と思った瞬間から、動き続けている他者との競争に負け始めます。安定とは、変化を続けた先にしか訪れません。
「変わらないために変わり続ける。」
流れの中に留まる力こそが、これからの時代で最も必要とされる能力ではないでしょうか。「安定」を求めるなら、むしろ変化を選ぶ。そこに、次の風景が開けてくるのだと思います。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
2025.11.20
男のアップデート
昨日は、国際男性デーでした。そんな日が存在することは全く知りませんでした。昭和時代を生きた私は、「男は人前で泣くものではない」と、半ば常識のように聞かされて育ちました。泣くという行為は、どこか「弱さ」のメタファーであり、公共の場における男の立ち振る舞いとしては非推奨とされていたわけです。昭和的な価値観は、ある意味で“直線的”でした。強さとは何か、責任とは何か、男らしさとは何か。その答えは、迷いなく一本道の上に並んでいたのです。
しかし、時代は静かに、しかし確実に変わりました。令和の空気には、「泣く」ことの意味をアップデートする余白が生まれています。男が涙を見せることが、弱さの表明ではなく、感情の自然な流れとして受け入れられるようになってきました。これを進化と呼ぶか、多様化と呼ぶかは人それぞれですが、確実に“選択肢が増えた”という点が重要です。
私が興味深く感じるのは、泣くことそのものよりも、「泣く自由」が生まれたということです。自由が生まれると、人はそれを必ずしも行使しません。泣きたい人は泣けばいいし、泣きたくなければ泣かなくていい。ポイントは“自由度の高さ”です。これは昭和にはほとんどなかった概念です。
人間の行動は、強制よりも選択可能性によって豊かになります。感情の扱いも同様で、怒る・笑う・泣くといった基本動作に対し、どのようにアクセスするかを自分で選べることが、生活の満足度を大きく左右します。こと男性においては、この「泣く」という行為へのアクセシビリティがようやく確保されつつあると、感じるのです。
最近では、映画やドラマの感動シーンに素直に涙する男性を、周囲があたたかく受け止める場面も増えました。昭和的基準で育った私としては、どこかむずがゆさを覚えつつも、この変化をとても好ましく思っています。泣く・泣かないをめぐって議論する必要すらなく、ただその人らしくあればいい。そういう柔らかい社会に近づいているのだと感じます。
結局のところ、泣くかどうかは“戦略”ではなく“自然”です。自然体でいられる社会のほうが、私たちの心にはずっと健全です。昭和の私にそっと伝えるなら、「泣いてもいい。泣かなくてもいい。ただ、自分の感情を自分で選べるようになったよ」と言うでしょう。時代の変化とは、こういう小さな自由の積み重ねなのだと思います。
2025.11.17
くじ運
このところ、くじ運には恵まれていません。大阪城ホールで行われる、永ちゃんのコンサートチケットが、この3年以上外れてばかりです。そして今年も、外れてしまい、つい先日キャンセルの空き抽選があり、一縷の望みで申し込みましたが、ダメでした。
そんな中、茨城県神栖市の市長選で、両候補が全く同数の票を獲得し、最終的にくじ引きで当選者が決まるという前例の少ない出来事がありました。このニュースに、多くの人が驚きと同時に、どこか腑に落ちない感覚を持ったのではないでしょうか。民主主義の象徴ともいえる選挙が、最後は「運」に委ねられる。その構図は直感的には理解しづらいものです。
公職選挙法では、同数の場合はくじで当選者を決めると定められています。くじという手段は、一見すると軽く感じられますが、実は極めて中立で、公平です。人の恣意や解釈が一切入り込みません。制度としては極めて合理的と言えます。
とはいえ、市民の心情として「運で決まった市長」に複雑な思いが生じるのも理解できます。しかし、ここからが本当の勝負です。選ばれた市長には、誰よりも強く、自らの正当性を行動によって証明する責任が生まれました。
出発点は運であっても、評価は仕事で決まります。営業という仕事も、一面そういうところがあるなぁ~と、強く感じました。
2025.11.16
ポジション
今回の立花孝志氏の逮捕と、その後に示談を申し入れているという報道を受けて、非常に示唆に富んだ構造変化が起きていると感じています。
しかし、今回の件で示談を申し入れるという動きは、従来の「攻め」の戦略から「ダメージコントロール」へと軸足を移したことを意味しています。
一方で、この動きが単なる弱腰ではなく、戦略的撤退である可能性も否定できません。示談の申し入れは、刑罰の軽減やイメージの損失を最小限にするための計算された行動とも考えられます。政治家としての影響力やブランド維持のために、最適解を取りに来ているとも受け取れます。
でも、現時点では、遺族側が示談に応じていないという報道が出ています。交渉の構造としては「提案 — 拒否」のフェーズにあり、まだ出口は見えていません。ここからの行動こそが、立花氏の信頼や評価の行方を決定づけるポイントになるはずです。
結論としては、今回の示談申し入れは、単なる敗北や弱さの露呈ではなく、戦略的転換点と捉えるべきだと考えます。攻勢から調整へ。強さの形を変えながら、リスクを管理する舵取りとも言えます。この分岐点で、立花氏がどのような姿勢を示すかが、今後の影響力を左右するでしょう。
2025.11.15
ブームは再燃するのか?
ブームというのは、たいてい一度きりで終わるもです。ですが、豆乳には「繰り返し戻ってくる力」があります。これは単なる健康志向の波ではなく、日本人の生活リズムに合った“柔らかい必然”のようなものだと思います。
豆乳は、派手な味の主張がございません。だから、流行のスイーツにも、プロテイン飲料にも、カフェラテにも自然に溶け込みます。言い換えれば「主役にも脇役にもなれる」。これは、ビジネスでいえば“共存力”の高さです。
目立たず、しかし長く愛される商品には、この共存力があります。 もう一つ、豆乳の強さは「正しすぎない健康」にあります。人はストイックすぎる健康法には疲れてしまう。青汁のように一度は試しても続かない。それに比べて豆乳は、冷蔵庫に入れておけばなんとなく安心できます。朝のコーヒーに入れるだけで「ちょっと健康的になった気がする」。
その“気がする”という軽やかさが、リピートの正体ではないのでしょうか。 ビジネスでも同じで、「完璧な戦略」よりも「続けられる習慣」が成果を生むといいます。豆乳は、戦略的には控えめだが、習慣としての粘り強さがあります。たんぱく質や美容効果といった“機能”を訴える一方で、味や飲みやすさといった“情緒”の側面を手放しません。そのバランスが心地いいものです。
結局、豆乳ブームが繰り返されるのは、人が「無理なく健康でありたい」という普遍的な欲求を持っているからでしょう。要するに豆乳とは、“頑張らない健康法”の象徴なのです。