アキバのつぶやき

2025.11.14

優先座席と譲る心

 久しぶりに電車に乗りました。駅構内と車内の風景が変わっていることにすぐに気づいたことがあります。それは、高齢者の数と外国人の乗客が実に多くなったということです。高齢化とインバウンド。どちらも日本社会の現実を映す鏡ですね。

 ところが、車内の優先座席の数だけは、数十年前と変わらない。昔は「限られた人のため」だったものが、今では「ほとんどの人に関係ある制度」になっている。にもかかわらず、制度設計が古いままです。ここに、日本の「構造的な遅れ」があると思うのです。

 そんな中、帰りの車中で、こころ洗われるほのぼのとした光景を目にすることができました。それは、勤務を終えた初老と見える男性が、乗り込んできたキャリーケースを持った70代らしき女性に、席を譲ろうと座席から少し離れているその女性に、席を離れ声を掛けました。その女性は、「次の駅で降りますので大丈夫です」と、丁寧にお礼を示し辞退されました。
 
 するとその男性は、すかさず横に立っている、幼い子を持つ母親に声をかけ、自分が座っている席をその母親に譲るではないですか!やったー!その好意に従い若い母親は座ってくれました。次の駅に着くまでその母親が子どもに投げかける、何とも言えない愛情湧きあふれる笑顔と接し方が、我が子どもの幼き時代を思い出さしました。しばらくして駅に着くと、その3者は同じ駅に降りたのでした。

 優先座席の本質は「席の数」ではなく、「譲り合いの構造」をどうデザインするかにあります。かつての日本では、社会の同質性が高く、暗黙の了解で譲り合いが成立していた。しかし、今は多様化しています。

 外国人旅行者は日本式の「気づきのマナー」を知らないし、高齢者の数はかつての倍以上です。そうした状況の中で、数十年前の「固定的な優先座席ルール」で運用するのは、構造的に無理が出てきているのではないでしょうか。

 必要なのは、「誰のための席か」ではなく、「状況に応じて機能を変える席」という発想の転換です。時間帯や混雑状況に応じて優先エリアを可変化させるのです。テクノロジーを使えば、そんなことは難しくないでしょう。

 たとえば、アプリやLED表示で「いまは高齢者優先ゾーン」などと可視化すればいい。要は、席を増やすよりも「譲る仕組み」をアップデートすること。
 制度ではなく、デザインの問題です。そしてそのデザインの質が、社会の成熟度を映す鏡になると思うのです。

2025.11.13

早期退職に見る年齢の壁

 大手製造業で50代の早期退職者募集が相次いでいるニュースを見ました。定年を待たずに新たな道を選ぶ人が増える中で、よく聞かれるのが「年齢の壁はあるのか」という問いです。これは転職市場だけでなく、人生のリセットを考える上でも重要なテーマではないでしょうか。


 尊敬する楠木建さんなら、「年齢の壁は“事実”としては存在する。しかし“意味”としては存在しない」、というのではないか。制度的にも市場的にも、年齢という数字が影響を持つのは確かです。けれど、それを単なる障害と捉えるか、物語の一部として再定義できるかで、見える景色はまったく違ってくるのです。

 50代の転職で問われるのは、「これから何ができるか」ではなく、「これまで何を考え、どう選択してきたか」という経験の“解釈力”です。よく、揶揄されるのが、「かつて○○企業で部長をやっていました。」というのがありますす。

 若い人が持つ柔軟性に対し、ミドル世代が持つのは文脈力と関係資産です。企業にとっても、いま必要なのはマニュアル通りの即戦力より、状況を読み解き、人を動かせる人間の厚みです。

 結局のところ、年齢の壁とは「自身の人生を物語れないこと」です。自分の仕事の意味を言葉にできないと、どんなに実績があっても価値が伝わりません。言語化力がとわれるのです。逆に、歩んできた道のりを自分の言葉で語れる人は、年齢がそのままブランドになります。 楠木さんならきっとこう締めくくるでしょう。

 「転職で問われるのは年齢ではなく、物語の一貫性だ」。

2025.11.11

螺旋の先にあるもの

 DNAの二重らせん構造を発見したワトソン博士が亡くなりました。

 同じ時期、名古屋で26年前の殺人事件がDNA鑑定によって解決に向かいました。
この二つの出来事は、一見無関係に見えて、一本の「らせん」でつながっています。

 ワトソン博士の発見は、単なる科学技術ではなく、「人間をどう理解するか」という視点の転換でした。
DNAは生物の設計図であると同時に、「個の証拠」でもあります。それによって、司法の世界では「状況」よりも「構造」が重視されるようになりました。科学が真実のあり方を変えたのです。

 名古屋の事件では、26年という時間が経っても、DNAが沈黙の中で事実を語り続けていました。記憶や証言は変わっても、分子は嘘をつかない。

 科学は時間の流れを敵にせず、むしろ味方にする力を持ちます。過去を再び問い直すことができる。それは人間の知恵の進化でもあります。
ただし、科学の進歩は光と影を伴います。

 DNA鑑定の精度が高まるほど、データの扱い方や倫理の問題も複雑になります。ワトソン博士自身も、晩年に発言を巡って批判を受けました。
科学の発見は中立でも、それを使う人間は不完全です。

 だからこそ、私たちは技術そのものではなく、その背後にある「判断の質」を問う必要があります。DNAのらせんは、科学と人間社会の関係そのものを象徴しているようです。
 
 倫理と進歩、発見と誤用が絡み合いながら、私たちは少しずつ前に進んでいく。科学は万能ではありませんが、その螺旋のどこかに、人間の希望と責任の接点がある。ワトソン博士の死と事件の解決は、まさにそのことを静かに教えてくれたように思います。

2025.11.10

当たり前に感謝するという知的な営み

 「当たり前のことに感謝しましょう」という言葉は、道徳的な響きが強い。でも、私はこれを「知的な構造の問題」として捉えてみたい。感謝とは、単なる“いい人ぶり”ではなく、人間の知覚構造を再起動させる行為ではないでしょうか。


 人間は比較するの動物です。何かと比較しなければその価値が分からないように、人間の脳に埋め込まれています。変化がなければ、ものごとを認識できないようになっています。

 朝、電車が時間通りに来ても何も感じないのに、遅れた瞬間に文句を言いたくなる。つまり「当たり前」とは、比較が失われた状態のことです。感謝できないのではなく、比較の基準が麻痺しているのです。

 ここでひとつ発想を転換してみます。もし、今日あなたが起き上がれなかったら? もし、スマホが突然使えなくなったら? もし、大切な誰かがもういなかったら?

 そう考えた瞬間に、当たり前が“ありがたい”に変わります。これは感情論ではなく、構造の再定義といえます。感謝を習慣にするには、“設計”が必要です。たとえば、毎晩一つだけ「今日ありがたかったこと」を書き出してみる。これは気分の問題ではなく、意識に上げる仕組みです。感謝とは筋トレのようなもの。鍛えなければ鈍るし、習慣にすれば反射的に出てくるもの。
 
 感謝できる人は、長期的にみると強い。なぜなら、怒りや不満は短期的な反応ですが、感謝は長期的な視座を育ててくれます。仕事でも人生でも、“うまくいっている人ほど謙虚”なのは、彼らが「ありがたみの構造」を理解しているからです。

 「ありがたい」とは「有ることが難しい」と書きます。つまり、存在そのものが奇跡であるという認識です。これを意識的に取り戻すことが、人生の質を高める最もシンプルで知的な戦略ではないかと思うのでした。

2025.11.09

令和の従業員は梯子を持ち運ぶ働き方が求められる!

 「梯子を外される」という言葉には、妙な現実味が存在します。

それまで確かにあったと思っていた足場が、気づけばスッと消えている。しかも、誰かが意地悪で外したというより、時代の流れの中で自然にそうなってしまう。

 そこが一番厄介です。
サラリーマン人生を「梯子の上り下り」にたとえるなら、それは「構造」に依存する生き方です。会社という組織が用意してくれた階段を、順序よく上っていく。どの段にどんな景色が見えるかは、ほぼ決まっています。ところが今、その梯子自体が揺らいでいるのです。昇進という梯子、年功という梯子、終身雇用という梯子。どれも少しずつ軋みを上げています。

 問題は「梯子がなくなった」ことではございません。梯子があることを前提にして生きてきたことが問題です。構造の変化に気づくのはいつも遅い。だから「外された」と感じる。実際には、梯子は誰も外していない。ただ、固定されていたと思っていたものが、もともと不確かな支えに過ぎなかっただけです。

 では、どうすればいいのでしょうか。私は「梯子を持ち運べる人」になることが肝心だと思うのです。つまり、自分で足場を設計できる人になろうということです。

 会社や制度に依存せず、自分の価値を市場に接続できる人になることです。構造の上に立つのではなく、構造を利用して動ける人。そのために必要なのは、スキルよりも「構造を読む感覚」です。どこに梯子が立てられそうか、どの方向に登るべきか。構造を読み解く眼があれば、梯子を外されても転落せずに済むのです。

 そう考えますと、「梯子を外された」と感じた瞬間こそ、実はチャンスとなるのです。自分の足で立つ感覚を取り戻す絶好の機会です。構造が崩れることを恐れるより、構造があるうちに依存してしまうことを恐れたほうがいい。

 梯子が外れたとき、ようやく見える景色が現れます。そんな逆説を楽しめるサラリーマンが、これからの時代を生き抜くのだと思うのです。